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仁井田駅前

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 仁井田駅は烏山線の一駅として、大正一二年四月の開通にともない、宝積寺・烏山・大金駅とともに開業した。当初「熟田」と称したが、駅名が愛知県の「熱田」と混同しやすいということで「仁井田」に変更された。また、当初の駅の位置は、今とは違い丘陵地に近い山裾に設置されたが、一たん汽車が駅に停車してしまうと、なかなか丘陵を登りきることができず、このため仁井田駅は現在の位置に移転された。
 こうした事情から当初の仁井田駅周辺には烏山街道(宇都宮―烏山線)沿いに、文挟駐在所と旅館が一軒あり、商店としては酒屋が三軒、床屋・仕立屋・魚屋二軒、呉服屋・うどん屋・雑貨屋・饅頭屋・炭屋・桶屋・大工・鍛冶屋・建具屋・畳屋・荷鞍屋などの店がみられた。
 その後移転した現在の仁井田駅を中心に烏山街道沿いには、様々な商店が道の両側に軒を連ねた。しかし、仁井田駅周辺は、大地主がこの一帯を所有していたため、地主から借地して商売をはじめるといったかたちで商店ができはじめた。
 仁井田駅周辺は駅を中心に、文挟・平田・伏久・花岡と行政区が分かれ、当初東側から商店が立ちはじめ、戦前は東側が発展し戦後は西側が発展して行った。戦前において西側はクヌギ林と畑でほとんど人家は見られなかったという。
 昭和初期には下野中央銀行熟田支店があり、その後農協や丸通ができるなど、昭和二、三〇年頃が一番活気のあった時期で、周りの平田・花岡・文挟の農家の次男・三男が入り、商店を営んだ。ここでも、料理屋の数は多く、八千代・菊の屋・カトエネ・観月・松葉・田代屋・朝の屋・きみの屋・やなぎ屋・三好・白木屋などがあり、白木屋は旅館も営み富山の薬売りがよく泊まっていた。やなぎ屋も旅館兼業であった。そこには酌婦がいて、全体で二〇人程度はいたという。しかし、こうした料理屋も一代限りで、昭和四〇年代にはほとんど店を閉めてしまった。
 また、四つの大字全体で、平田にある笠田稲荷神社を祀り、初午の祭礼の時にはシミツカレを作り、赤飯をワラツト(藁つと)に入れて神社に供えた。なお、神社の境内が広かったため、お盆には盆踊りの会場ともなった。昭和三四年に駅東側で大火があったことは、徐々に記憶から遠のいている。

図9 現在の仁井田駅


図10 仁井田駅周辺の商店


図11 昭和20年頃の旧仁井田駅(文挟)付近の商店


図12 昭和戦前期の仁井田駅付近の商店(1)


図12 昭和戦前期の仁井田駅付近の商店(2)