高根沢町において、宝積寺駅前や仁井田駅前、それに一部太田において商店街が形成され、日々の生活物資の購入は、これらの商店で行なわれたが、結婚の結納品や晴れ着など特別な物は宇都宮まで買いに行った。
一方、行商も盛んに行われ、村々に様々な物売りが回ってきた。行商には高根沢町内に本拠を置くものと町外からやってくる者とがいた。前者は宝積寺駅前や仁井田駅前の商店など高根沢地内からの行商である。例えば、宝積寺駅前の田代金物店や広木屋による雑貨類の行商や煮干売りがある。また、豆腐や魚なども町内からの行商が見られた。後者は、宇都宮・氏家からの種売りや烏山からの箕売り、栃木からの篩、壬生からの箒や生姜の種、そして那須の笊売りなどが見られ、また県外からは静岡のお茶もあったが、最も有名なのは富山の薬売りと越後の毒消し売りであった。
このように、町内からの行商は日々の生活に不可欠な物資を供給するものであり、一方町外からの行商は一年の間に必要とするもので、地元では手に入りにくいそれぞれの地域の特産物などが供給された。その中で、魚売りは烏山の行商が水戸から仕入れた魚を、週一回程度サバ・サンマ・イワシ・数の子のクズを売りに来た。また、種売りは一般に駅前の肥料屋・米屋から買ったが、宇都宮・氏家から種屋が売りに回って来たこともあった。
それでは、ここで太田における行商の出入りを見てみよう。
まず、地域別では、宝積寺駅前の広木屋が自転車に木箱(縦五〇センチメートル×横六〇センチメートル×高さ二〇センチメートル)を四段重ねにして、雑貨・佃煮・魚・干し物を売りに来た。天神坂からは田代金物屋が皮引き・火箸・鋏・包丁・網・十能・下ろし金などを、自転車や背負いカゴ・背負いバシゴにつけて売りに来た。また、赤堀より下駄の行商が来て、入れ歯などの修理も含めて、盆・正月・祭礼前に、背負いバシゴ・自転車に積んで売りに来た。特に、お祭り前には必ずといってよいほど買ったという。寺渡戸の福島屋という魚屋は、生ものと干し物を自転車に積んだ木箱(縦九〇センチメートル×横四〇センチメートル×高さ二〇センチメートル)を四段重ねにして来た。生ものは、鰯・サンマ・カツオ・マグロ・カジキ・ニシン・サケ・ナマリ・サガンボ・タラ・イカ・カツオの塩潰けなどで、干し物はイワシのほうどし・みりん干し・タラの干し物・スルメ・塩引き・身欠ニシンがあった。特にイワシやサンマ、ニシンが多く、ニシンは数の子の入った「カド」が喜ばれた。生ものはその場でさばいてくれた。だいたい一週間おきに来て、代金はツケとなり盆と暮に支払った。ちなみに、身欠ニシンは、米の研ぎ汁か草木灰で二日間冷やしてから煮たという。そして、地元の太田からは田沢豆腐屋が背負いバシゴ・自転車に缶をつけて、そこに凍豆腐・生揚・ガンモ・焼き豆腐を売りに来た。特にガンモは葬式の時、焼き豆腐は正月に使われた。
一方、町外からはそれぞれの特産地から行商に来たもので、益子からはすり鉢・水がめ・火消し壷・茶碗・急須などを売りに来た。那須・黒磯・西那須野からは、特産品である種用の一斗入りの篠ザルや茶碗洗い・うどんやそばをあげる寒竹ザルを売りに来た。また、箕は春秋に烏山より売りに来たもので、自転車か歩きで二〇枚くらい担いで来た。栃木からは藤蔓でできた篩を自転車の両脇に吊るしてムラを回った。そして、壬生からは高箒などを売りに来たほか、生姜の種も三月下旬から四月上旬に俵に詰めて、自転車に乗せて来て、棒バカリで計り売りされた。