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薬売り

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 日本全国にその商圏を持つ越中富山の薬売りは、高根沢町も例外ではなく、その商圏に入っていた。
 富山からは春秋二回来たところと正月前と六月頃に来たところがある。宝積寺駅前や仁井田駅前などの旅館(白木屋・薄井旅館など)を定宿とするとともに、上高根沢にも定宿があった。飯室では「コウヤク屋」と呼ばれ、売薬を商いとする小島家を宿として使用した。こうした定宿を基点に町内各家々を回った。古くは薬の入った柳行李を風呂敷に包み背負ってやって来たが、後に自転車で廻るようになった。薬の売り方は、すでによく知られているが、得意の家に薬箱を置き、使った分だけ代金を受け取るという方法で、使った薬は新しいものを補充して行った。こうした商法は、富山の薬売りが開発したものである。また、おまけとして紙風船を置いて行くのも、子どもたちにとっては楽しみの一つであったが、金額に応じて飴や九谷焼の湯のみなども置いていった。
 また、毎年五月と九月頃になると「九州森田のあんま膏」といって、九州の佐賀県から湿布薬を売りに来た。この湿布薬は和紙に黒ずんだ薬が塗られており、それが半分に折られていた。使うときには火にあぶってはがし、アカギレや肩こり・捻挫などに効いたという。湿布薬とともに仁丹なども持ち歩いていた。通常自転車か徒歩で行商を行い、薬の入った柳行李を紺の風呂敷で包み、担いで家々を回った。定宿としては宇都宮や仁井田の旅館に宿泊して地域を回った。なお、戦後になると薬の数も多くなり、使った分だけ補充して行く富山の売薬方式で売られるようになった。
 越後の毒消し売りは、昭和一〇年頃まで春四月~五月の農繁期の直前になると、新潟県の柏崎や蒲原郡方面からやって来た。嫁入り前の娘たちで、四~五人がグループになって、行李に黄色く丸い粒の毒消しを入れ、風呂敷包みを背負って、「毒消しは、いらんか」と声を掛けながら売り歩いた。服装は、絣の着物に赤いたすき、濃紺の前掛け・菅笠・手差し・キャハンに靴を履いていた。毒消しとともにビンツケ油も売り、その場で代金と引き替えた。
 この他、滋賀県からも薬売りが来たと言う。また、昭和一〇年頃まで軍服姿の征露丸(現在は「正露丸」と表記)売りが来ていた。ペテンカバン(皮鞄)に薬を入れて、押し売りに近い形で売って歩いていたため、子ども心に怖いと感じていたという。

図13 富山の薬箱(平田 田代家蔵)