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〔ムラの暮しとイエの暮し〕

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 人は社会的営みをする動物といわれるように、集団を形成しお互いに助け合いながら生活してきた。特に我が国のような稲作農業を中心としてきた所では、お互いの協力・助け合いなくして生活は成り立たなかった。
 最も身近な集団には、家族、家族によって構成されるイエ、イエによって構成されるムラなどがある。ここではイエとムラとに視点をあてて述べる。なお、建物としての家と区別するためにイエと表記し、一方、ここでいうムラとは、大字やブラク、班などの自治的共同生活の集団をさすものであり、行政体としての村と区別するためにムラと表記する。
 昭和三〇年代の高根沢町は、栃木県内の他の市町村同様戦前の封建的なムラやイエの観念が残っていた。ムラの中には草分けとされるイエ、あるいは江戸時代に名主や組頭などの役をやったイエとそうでないイエとは区別された。このようなムラの中でも特別なイエは、墓地に堂を構えたり、四脚門や長屋門などの門を構える場合が多く、ドウモチとかモンガマエのイエなどと称された。そしてムラ役には、こうしたドウモチとかモンガマエのイエなどの家長があたった。また、高根沢町では戦前の地主・小作の関係が根強く残り、一方、本家・分家の関係も強く意識された。
 ムラの一番大きな単位は大字であり、この大字はさらにいくつかのブラクにわかれ、さらに班にわかれる。ムラ人たちは基本的には大字を単位としながらも、時にはブラクを単位にあるいは班を単位に互いに協力し、助け合いながら生きてきた。道普請や橋普請、道の草刈りなど公共的な施設や共有地などの維持・管理は、各イエから最低一人ずつ参加して労役にあたったものである。ムラの中には様々な集団が組織されたが、中でも目立ったのは青年団と消防団とであった。青年団は、二〇歳前後の男女によって組織された青年の鍛錬を目的とする集団である。昭和三〇年代は青年団活動が活発で、運動会や研修旅行、夜学、演劇会などが盛んになされた。消防団は火災や水害などの災害は、自分たちの手で防ぎ守ろうとしたところから組織されたものである。原則一戸あたり男性一人は参加するのが建前とされ、青年団と重複するように青年層が中心となって組織されたものでもある。ともあれ青年団も消防団も役員は年長者がなり、また、上下の関係が厳しくもあり、こうした縦社会の中で青年たちは育った。
 イエは家長を中心に家族によって形成された集団である。イエの中では家長の地位は高く、反対に余所のイエから嫁いで来た嫁の地位は低く、そうした家長や嫁の地位は、イロリまわりにおけるヨコザやキジリと称する座に象徴された。田植えを始めとする農作業や結婚式、葬式、あるいは家の普請など、各イエごとにいちどきに多くの人手を必要とする場合は、イエ同志が互いに労力を交換しあったものであり、こうした労力の交換をヨイドリとかテツダイッコなどといった。ムラ人は大字やブラク、班などといった地縁的な結合の他に、本家・分家の関係や結婚を機に関係するようになった親戚との関係をも重視し、イエ同志のつながりを強固にした。葬式や結婚式などは、班を単位として相互扶助が行われ、家の普請などは班内のイエばかりでなく親戚なども相互扶助に加わったものである。イエ同志は、そうした相互扶助関係を維持するために盆や正月、家の普請、子供の誕生、結婚式、葬式などでの贈答にも気を遣った。

図1 ドウモチ(中央奥手)が所有する持仏堂(下柏崎)


図2 屋台を引き出すブラクの人々(宝積寺)