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大字・ブラク・班の役職

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 大字の長のことを区長、あるいは大字区長という所が多い。ところで区長とは、もともと明治二二年施行の市町村制によって成立した市町村に設置された区の長をいったものであり、区の多くは旧村、つまり市町村制によって新たになった大字をもとにしたものでもあった。伏久では戦前、大字の役職として大字区長、大字会計、大字監事、連絡係がおかれた。連絡係は、大字区長より発せられる大字の取決めなどを各ブラク長へ連絡する係の者で、通称フレバン(ふれ番)ともいった。飯室には、ジョウツカイ(常使い)という言葉が伝承されている。石末では昭和一〇年、それまで区長一人であったのを、「石末自治行政ノ刷新改善ノタメ」として正・副区長制にした。正区長は役場や農会の連絡調整事務、副区長は水利関係の事務を司ることにした。
 なお、この区長という呼び名について、中東では、東ブラクの代表を区長と呼んでいた。戦後、町の指導によりブラクという言葉を改め、新たに番号制による行政区を設けた。その結果、戦前とは別の新たな区長が誕生したのである。
 中阿久津の場合、中阿久津全体を束ねる区長を代表区長といっている。行政区の設定によって中東は二九区、中西は四九区となり、それぞれ区長がおかれるようになり、従来の区長にかわって二九区、四九区を統合した代表区長をおくようになったのである。
 ブラクにはブラク長が選出された。ブラクの各家長の互選によったが、実際にはブラクの有力者が選出された。任期は二年とした所が多かったようであるが、これも実際には長年継続してブラク長を務めることが多かった。戦時中のブラク長の権限は、国家非常事態ということもあって強いものがあった。例えば、米や乾燥芋、乾し草、ひまし油の原料となるひまなどの供出割当、あるいは酒や砂糖、魚、肉、煙草などの配給には、ブラク長の意見が左右したという。
 ところで、戦後もしばらく呼ばれていたブラクの名前は、不適切用語として使用が差し控えられた。高根沢町では、旧来のブラクを行政区と改め、それに伴ってブラク長というムラ役の名前も区長と呼ばれるようになった。そして区長の選出も従来のブラク長の選出とは異なった。区長の選出は、下部組織の班長の互選により、班長は班員による順番制で、任期二年となっている所が多い。
 班のことを戦前は組といった。一番小さなムラ組織である。組を取り仕切る者を組長という所が多いが、ゴチョウ(伍長)という言葉が伝承されている所もある。戦時中に組が班となると、それまでの組長、伍長といった呼び名も班長と名称を変えた。こうした組長、班長は、ブラク長同様に組内の有力者がなり、長年同一人がその任にあたったものである。しかし、戦後、民主主義が浸透し、また、非農家が増えてきた昭和三〇年代になると、「お互い様」として班員が順番制で班長を務めるようになった。任期は二年である。なお、班には班長の他に氏子総代など各種役員がおかれているのが現状である。中阿久津の中東上堀班の場合、平成一四年現在、班の役職には班長の他に中阿久津の鎮守である星宮神社の氏子総代、農事組合の推進委員、天祭文化財保存員、土地改良区総代、農業共催評議委員などがあり、いずれも一人で任期は天祭文化財保存員以外(任期五年)は三年である。ちなみに上堀の戸数は一〇戸である。

図6 「中東通常総会資料」
区長の文字が見える(中阿久津)

 
 

表1 中阿久津のムラの構成の変遷