前述したようなムラ単位の共有財産の他、関係者だけが所有する共有財産もある。用水や堰、堰を築くための土取り場、あるいは堂や祠などがあるが、水車を共有する場合も多かった。また宝積寺駅前では、井戸を共有していた。
太田では共同で水車を所有した。大正八年の「水車共同組合規約」(史料編Ⅲ近現代 七一三頁)によれば、西村喜三、藤田常次郎、阿久津秀、小松隆庸、小松朝作、見目中、薄井豊、薄井善夫の八人が共同で水車を持っていた。彼らは水車共同組合を組織し、一六条からなる規約を設け、水車の利用をはかった。水車使用の目的は、互いの米つき、粉引きなど自家用に用いたものである。設置場所は、西村喜三、藤田常次郎両名の所有する土地を借用したもので、水車小屋の建設費、諸道具の購入費用は仲間が平等に分担した。当初、管理者には西村喜三があたったが、後、一名、任期三年をおき、水車の管理をまかせた。水車の使用は、各自交代にてまわり番であったという。
宝積寺駅前には、昭和二〇年代の後半、水道が普及するまで共同井戸が見られた。この宝積寺駅前は、前述したように東北線宝積寺駅開設後に開けた所である。この辺一帯が長く平地林であったのは、関東ローム層が厚く堆積する台地で、地下水層が深く、また、地表水も得にくい所であったからである。したがってここで井戸を掘ることは並大抵なことではなかった。町が出来た当座、井戸は宝積寺駅にしかなかったといい、住民は駅まで水をもらいに行ったともいう。井戸は二五メートルから三〇メートル近くも掘らないと水は出てこない。直径一メートルぐらいの穴を二五メートル以上も掘り下げるのは容易なことではなかった。そこで、一般のイエでは一〇軒前後が共同して井戸を掘り使用する共同井戸を持ったのである。
中区一丁目一班の須藤家では、他の九軒と共同で井戸を所有した。井戸は須藤家の屋敷内にあり、井戸枠は掘った当初は木枠であったが、大正の頃にコンクリート枠に改修したという。水の汲み上げは、釣瓶を両端に下げた縄を滑車に吊下げた車井戸で、井戸の上に雨よけの屋根を取りつけたものであった。井戸の下方にはコンクリート製の流しを置き、さらにその先に排水を流しこむメクラドブを設けた。ここで主婦たちは米をとぎ、洗濯などを行ったものである。このように水事情が悪かったので、風呂は毎日水を取りかえることはなく、タテッカエシ(風呂水の沸し直しのこと)であり、また、この風呂水汲みは大抵子供の役だったともいう。明治四四年生まれの須藤カネは、子供の頃風呂水汲みをやらされ、天秤棒の両端に水を入れた手桶を提げて運んだという。
共同井戸は、毎年春先にイドハライ(井戸払い)を行った。井戸の底にたまったゴミや土砂を取り除く作業である。一戸一人ずつ参加したが、井戸の中には通称「井戸しんさん」と称する専門家が入った。井戸払いは、午前中いっぱいで終り、その後近くの稲荷社で花見をしたという。