一方、女子は大正期の処女会、その後の女子青年団、そして昭和二年には全国組織として大日本女子青年団が設立した。戦時中、大日本青少年団に吸収され、男女とも同じ組織の中で活動するようになった。前述のとおり戦後、青年団が復活したが、この青年団は男女合同の集まりである。
ここでは大正期の阿久津村青年会と昭和五〇年代の中阿久津の青年団について紹介したい。
阿久津村青年会は、大正一〇年に創立したもので、それまであった各大字あるいは坪別にあった小青年会を統合したものである。そして上阿久津、中阿久津、宝積寺、駅前、大谷、笹原、石末に支部を置いた。青年会の目的は、教育勅語などの趣旨を理解し、各支部相互の連絡を通じ団員の親睦をはかり、心身を鍛錬して質実剛健の気風を養い、産業を改良し、風紀を正し、公共心の発揚をはかって自治団体の基礎を固めることにあったという。会は一五歳頃から三〇歳までの男子によって組織され、団長一名、副団長二名、支部長七名、幹事二名、会計二名、評議員一四名の役員をおいた。なお団長には、阿久津村村長がなった。会の経費は、村からの補助金と団基本金の利子をあてた。主な事業は、年一度開催の定期総会、名士を招いての講演会、品評会、手芸品展覧会、剣道、運動競技会、肥料試験苗代品評会、耕地整理、敬老会、雑誌購読会など多岐にわたった。
昭和五〇年代というのは、高根沢町では青年団活動が衰退する直前の時期である。中阿久津のKYは昭和三四年生まれで、二三歳で中阿久津青年団に入団した。当時の中阿久津青年団は、一八歳前後から結婚直後の男女によって組織されたもので、役員には団長一名、副団長一名、その他に文化部長、運動部長、事業部長などがおかれた。主な活動内容は、阿久津中学校校庭での盆踊り、バスを借り切っての旅行、スキー、ハイキング、研修会などおもに親睦を図るための活動が展開された。なお昭和二〇年代には、天満宮の祭礼で青年団が芝居を演じたといい、昭和三五年頃には団員が農家の稲刈りの手伝いをヨワリ(夜なべ仕事のこと)で行い、謝礼で得た金を活動資金にあてたという。
図11 大谷青年団の俵かつぎ競走(大谷 阿久津次大氏提供、大正時代)