戦後、民主主義の導入により家格は否定されたが、現実には自治会が作られる昭和四〇年代頃まで家格はムラの中に生き残っていた。今でも家格を示す言葉や家格を象徴する物が見られる。
中阿久津には、カシラジとか「五堂三門」という言葉がある。カシラジとは中阿久津における草分けをいい、そうであるとされるイエが八戸ある。カシラジのイエでは共同で権現様を祭り、今でも毎年四月に祭りを行っているという。一方、五堂三門とは堂を持つイエが五戸、門を構えるイエが三戸あること、つまり堂や門を持つ事の出来た格式の高い、あるいは裕福なオダイジン様を指した言葉である。しかし具体的にそれがどこのイエなのかは古老により多少異なる。また、古老が言い伝えるイエの中にはカシラジと重複するイエがあり、いずれも古い格式のあるイエであることには変わりはない。ともあれ、中阿久津では昭和四〇年頃まで、こうしたカシラジや五堂三門と称されるイエがムラ役を務め、葬式には帳場を務めるなどムラを仕切っていたのであった。
ところで、五堂三門の言葉で示されるように堂や門は、家格の高さをひと目で表わし家格を象徴するものであった。高根沢町では、堂を持つイエを堂持ちといい、門を構えるイエをモンガマエ(門構え)のイエとかモンタチ(門立ち)などといっている。
家格を象徴するものには、この他に食違い棟や式台がある。食違い棟は二章で述べたように、江戸時代に名主や組頭などを務めたイエに見られる客人応対のための独特な造りの家である。一方、式台は客を送迎して礼をする玄関先に設けた板敷きをいい、食違い棟はもちろんのこと江戸時代に名主や組頭などを務めたイエに見られる造りである。
江戸時代においては母屋を始め付属建物の建造や造り方に種々制限があり、誰でも堂や門、食違い棟、あるいは式台を持ったり構えることができるものではなく、名主や組頭などムラの中でも特権的なイエのみが持つことを許されたものであった。明治期になるとこうした制限は無くなったが、しかし堂や門を新たに持ったり構えることの出来たイエは、裕福な地主層、つまり江戸時代の名主や組頭などに準ずる家格の高いイエのみが成し得たものであった。
図13 門構えのイエ(花岡)