ビューア該当ページ

イエ印と屋号・家紋

271 ~ 274 / 766ページ
 イエ印とはそのイエの記号である。農民であれ商人あるいは職人であれ、人々は冠婚葬祭を始め家の普請、農作業など何事を行うにも、お互いイエ同志が協力しあったものである。また、ムラでは定期的な寄合いばかりでなく、葬式など重要なことがおこれば、当番のイエにムラ人たちが集まり、話合いを開いたものである。そうした折には、労力ばかりではなく膳椀が足りなければ膳椀を互いに融通しあい、また、農具などを持ち寄ったものでもあり、一方、寄合いが開かれるイエでは、同じような履物がアガリハナを埋めるということがあった。このように膳椀や農具、あるいは履物などが入り乱れる中で、どれがどこのイエの所有物であるか明確にしておく事は、ムラでの生活をして行くために極めて重要なことでもあった。そのために各イエは独自のシンボルマークであるイエ印を持ち、膳椀や農具、履物などにその印をつけ、どこにあってもそれが自家のものであることがわかるようにしたのである。
 イエ印は、【^】や【^+^】、¬、○、などの形を基本とし、それぞれヤマ、イリヤマ、カネ、マル、などと呼び、その中にカタカナや漢字を配置するものが多い。例えば【^+ト】は、ヤマト、【^+^+十】はイリヤマジュウ、【¬+キ】はカネキ、【○+タ】はマルタとそれぞれ呼ぶ。膳椀には、購入時に注文を取る業者にあらかじめイエ印を教え、椀の底、蓋の底、膳の裏側にイエ印を漆で書いてきて納めてもらう。農具などの場合は、鍛冶屋で作ってもらったり荒物屋から購入した焼判で印をつける。なお、焼判には鉄製のものと銅製のものとがあった。この他に、土蔵や石蔵の妻側屋根下にイエ印を墨書し、遠くからでもどこのイエの蔵かがわかるようにしている場合もある。
 屋号とはそのイエの俗称である。江戸時代、農民の多くは名主や組頭など一部の特権的な農民を除くと苗字を持たなかった。一方、明治期になり苗字を名乗るようになってもムラの中には本家分家で繋がったイエが多いために同じ姓を名乗る者が多かった。そこでムラ人たちは、互いを俗称で呼び合ったのである。
 屋号には地名で呼ばれるもの、職業名で呼ばれるもの、ムラの中での地理的位置で呼ばれるものなどが目立つ。上高根沢簗瀬のS家は簗瀬の草分けとされるイエであり、屋号をヤナゼという。地名で呼ばれる場合には、このS家のように草分けとされる旧家に見られる。職業を屋号とする場合は、カジヤ(鍛冶屋)とかクルマ(車・水車のこと)、タタミヤなどといったもので、ムラの中での地理的位置を屋号とする場合は、ヒガシ(束)とかニシ(西)といったものである。
 なお、屋号で呼ばれるというのは、言葉を換えていうならばそのムラに長く居住し、そのイエの存在がムラ人から認められたからこそ呼ばれるのであり、したがって屋号を持つイエは旧家に見られ、近年余所から移り住んできたイエやシンタクに出たイエなどは屋号を持つことが少ない。
 家紋はもともと、公家や武家などが家系や苗字の象徴として用いたもので、庶民の間では苗字帯刀を許された名主や組頭など村役を務めたイエで用いられた。それが一般庶民にまで用いられるようになったのは江戸時代中頃からといわれる。おもに紋付着物といわれるように、結婚式や葬式で着用する晴着、結婚式や葬式などで用いる提燈、位牌、墓石などに見られる。
 こうしたイエ印、屋号、家紋について太田の西村力三家の場合について具体的に紹介しよう。西村家のイエ印は、【^+西】(ヤマニシ)を用いた。イエ印のついた焼き判を太田地内の鍛冶屋に作ってもらい、下駄、鍬、鎌、唐鍬、万能、薪割り、肥桶などに押して印をつけた。膳椀については、昭和二六年に、現在使用しているものを会津のお膳屋に注文して二〇人分作ってもらったが、この時に漆でイエ印をつけてもらった。屋号はニシムラと言い、苗字と同じものが用いられた。家紋は丸中三つ柏で、紋付着物、提灯、位牌、墓石、武者幟などに入れた。紋付着物の場合は、結婚式や葬式に着用していくものは袖の表二ケ所、胸元二ケ所、背中の計五ケ所に家紋をつけた五つ紋、お呼ばれにいく時には胸元二ケ所、背中の計三ヵ所につけた三つ紋のものを用いた。なお、妻の紋付着物は、嫁入り時に持参してきたものは妻の実家の家紋を入れたものであり、その後作ったものは西村家の家紋を入れた。提灯の場合、嫁入り儀式のチョウチントッカエなどで用いる弓張り提灯、吊下げ式のブラ提灯、消防団の出動などで用いた幌長提灯などがあったが、それぞれ幌の部分に家紋を入れた。また、弓張り提灯は普段提灯箱に入れておいたが、その箱にも家紋を施してあった。武者幟の場合は西村家の紋を入れたという。

図14 家紋を施した石蔵(宝積寺)


表3 西村家を含めた太田六班の各イエのイエ印と屋号・家紋