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嫁と婿

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 イエの中で一番地位が高いのが戸主ならば、一番地位が低かったのは嫁である。他家から嫁いで来たばかりの嫁は、家族の中では唯一血縁のない余所者である。封鎖性の強いムラ社会にあっては、余所者に対する警戒心が強く、ある一定の期間を経てからでないと簡単に容認しない風潮がある。嫁の地位が低かったのは、そうしたムラ社会特有の習慣が働いた。嫁が一人前と見られるようになるのは、子宝に恵まれ、子供が小学校に行くようになった頃である。
 嫁の立場を象徴する俗言に、「三年子無きは去る」「嫁の早食い」「終い風呂」といったものがある。「三年子無きは去る」の言葉は、医学の発達した今日からすると、嫁の人権を無視した言葉であった。というのも、不妊は女ばかりではなく男の側にも原因があるが、それがひとえに嫁の責任とされたからである。ただし、子供が生まれないからといって必ずしも離縁されるとは限らなかった。養子を迎えるという方法が取られたからである。
 「嫁の早食い」とはよく言ったものであるが、実際、嫁は家族の給仕をしてから食べ始め、家族と同じか早く食事を済ませ、次の仕事である鍋・釜を洗ったり、衣類の洗濯に取りかかったものである。昼食時には、そうした仕事を素早く済ませ、夫や舅・姑たちと農作業に出かけ、また葉煙草のしの時期には、夕食後の夜なべ仕事にかかったものでもあった。したがって、ゆっくりと膳やチャブダイに向って食事すら取れずに、立ち食いなどといったこともあったという。
 「終い風呂」は、入浴順が最後を意味する言葉であり、嫁の旱食い同様に嫁の多忙さと地位の低さを言い表した言葉である。風呂に一番最初に入るのは、大抵年寄りか戸主であり、家族が床についた頃最後に入浴するのは嫁が通り相場だった。嫁は台所の後片付けをし、さらに明朝の食事の準備をしてから入浴したものである。家族が多く、また、風呂の中で体を洗っていた時代、嫁が風呂に入る頃には、風呂水も残り少なくなり、汚れも増し、決して良い風呂とはいえない状況であった。終い風呂はそうした劣悪な入浴でもあったのである。
 この他、嫁の立場を象徴するものとして白無垢とイロリまわりでのキジリがある。昭和三〇年代頃まで、結婚式は自宅で行われたものだか、その頃の花嫁は緋の長襦袢、白無垢の着物、留袖を重ね着したものである。この白無垢の着物については、「白は何色にも染まるように、嫁も嫁いだイエの色に早く染まるように」との願いを込めて着用するものだといわれ、嫁はいち早く嫁ぎ先の家風に馴染むことが要求されたのである。一方、イロリまわりのキジリは、戸主の座であるヨコザと相対するイロリの火の燃し口であり、満足に座る場所すらない所である。つまり、ヨコザと相対することで嫁の低さを象徴し、かつ、嫁はイロリに座してゆっくりとイロリの火にあたったりお茶を飲む暇もないくらいに多忙であったことを物語っていたのである。
 次にこうした嫁の様子について太田のUS(大正四年生まれ)の例を紹介したい。
・枡の管理 飯炊きはUSの仕事であったが、嫁入り当時は姑が朝夕の炊事ごとに米を計ってくれた。USが枡を持って米を自由に計れるようにできたのは、嫁いでから一〇年くらいたってからであった。
・蔵の鍵の管理 嫁いだ当座は勝手に蔵の扉をあけて中に入ることが出来なかった。姑が蔵の鍵を管理し、姑の指示にしたがって蔵の中に入り品物を出し入れした。USが蔵の鍵を自由に持つことが出来るようになったのは、枡を持つことが出来るようになった頃である。
・イロリの座 USは嫁いでからしばらくの間、イロリまわりではキジリに座した。姑が年取り長男が成人した頃になってようやくヨコザ以外の所に座すことができるようになった。
・食事 食事はイロリのかたわらの板の間でとった。箱膳を使用。祖父と両親の飯と汁はUSが盛り、それ以外の家族は各自が盛った。USの食事はいつも最後で、子供が食べ残したものを片付けながら食べたという。姑から「飯と歩くのは、いくらそそうでもよい」といわれ、素早く食事は済ませた。
・入浴 USが嫁いだ頃の井戸は、ハネツルベであった。風呂水汲みはUSの仕事で、昼飯の後に家族が休息している間に汲んだものである。入浴は、USが最後である。当時はタテッカエシと称して、必ずしも毎日風呂水を取り替えることはせず、前日汲んだ水を沸かした。タテッカエシの時などは水は汚れ、かつ少なくなり、ゆっくりと湯に浸る状態ではなかった。
 
 嫁が家族の中で地位が低かったのに対し、婿はむしろムラの中での地位の低さが際立った。婿に入ると早速、ムラの若衆付合いに参加しなければならなかったが、大きな声を発したり、「でしゃばる」ことは慎むものだといわれた。また、消防団に入るとハシゴ担ぎをまかされたり、体力を試されたものである。宝積寺で商売を営むSK宅は、祖父が石末の籠関より婿養子に入ったイエである。その祖父の話しによると、祖父がまだ婿入りする前、つまり昭和初期の頃、籠関では上河内町の羽黒山神社の祭礼に梵天を奉納したものであるが、婿入りじたての者は梵天の一番重いネッコの所を担がせられたという。
 このように婿の地位は低いものであり、そうしたことから「小糠三升あれば婿にやるな」という俗言が聞かれた。しかし、現実には女の子ばかりのイエや長女にイエを相続させるイエもあったので婿を養子に迎えることはありふれたことであり、また男の子が三、四人いれば一人くらいは婿養子に出した。また、宝積寺で商売を営むイエでは婿を大事にしたともいう。というのも宝積寺あたりの商売は、店売りだけでは売上げが少なく商売がなりたたず、そのためにガイバイ(外売・各戸を訪れ注文を取り、注文の品物を届けながら商売をすること)をしたものであるが、婿取りのイエでは婿に外売を任せることが多かったといい、任された婿は一生懸命その任にあたったので大事にされたのである。

図17 祭りの裏方をつとめる女たち(太田)


図18 イロリにおける座まわり―宝積寺N家の場合―(嫁は昭和36年に嫁ぐ。当時N家の家族は、夫の両親、夫の妹3人、弟1人、それに嫁の8人家族であった。/イロリまわりには、それぞれ図のように座した。妹、弟は特に定まった所はなく適当に座した)