奉公人には、男子もいれば女子もおり、男子をワカイシ、女子をネエヤとかジョチュウ(女中)などと呼んだ。奉公人は、近隣の地域より雇い入れる場合もあれば遠く東北地方より雇い入れる場合もあり、東北地方より雇い入れる場合は、ケイワンとかケイアンと呼ばれる斡旋者の仲介を経て雇い入れる場合が多かった。ちなみに大正三年から七年にかけて記された「雇人日記帳」(史料編Ⅲ近現代 五九〇頁)によれば、奉公人の出身地は宮城県しかも遠田郡が多く、その他に福島県伊達郡の名が見える。なお、県外よりやって来た奉公人をクニッコといった。
奉公人は、一年ごとの契約で雇い入れたもので、契約金は親が持っていった。言葉を換えていえば、ワカイシやネエヤに出すイエは経済的に困窮した零細農家であった。
ワカイシが奉公に雇われるのは高等小学校卒業後、戦後は中学校卒業後であり、仕事はもっぱら農作業である。一方、ネエヤの場合、戦前は小学校卒業後が多かったが、中には小学校在学中から奉公し奉公先から学校に通った者もいた。ネエヤの仕事は、やってきた当座は、奉公先の子供のオトモリ、つまり子守りが主で、その後勝手仕事や農作業に従事する。ワカイシの中には、ムラの青年たちと積極的に交わる者もおり、初穂の祝いであり農作業が休みとなるイナホサマ(稲穂様)の行事に加わった者もいた。
奉公人の年季明けは、ワカイシの場合は兵隊検査時、ネエヤの場合は嫁入り時とすることが多かった。大地主に奉公に入ったワカイシの中には、仕事振りが認められ分家に出される者もあった。こうした奉公人分家をカド(門)とかモンゼンヒャクショウ(門前百姓)といった。奉公先の門前に分家させられたからである。
上高根沢町のSY家は、戦前耕地を約二〇町歩ほどを有した富農である。昭和三〇年代の半ば頃までSY家では、常時ワカイシを二、三人、ネエヤを一人雇っていた。ワカイシは福島県方面や地元から来た者が多く、親戚の紹介や以前働いていたワカイシの親などの紹介で雇ったものである。ワカイシの寝室は、台所の一部をワカイシ部屋にあて、ネエヤには裏座敷を当てた。なおSY家では、奉公人を分家に出したことがある。
図19 草刈りのあい間に一服する(大谷 阿久津次大氏提供)