左記の表は、大正一三年高根沢町域における五〇町歩以上の地主一覧であり、ここには八名の地主が名を連ねている。当時、栃木県内における五〇町歩以上の地主数は四七名であり、高根沢町域の地主割合は一七パーセントという高い割合をしめた。中でも旧北高根沢村の矢口長右衛門、見目清、加藤正信、宇津権右衛門、旧熟田村の鈴木良一は、所有耕地面積が百町歩を超し、小作農家数が二〇〇戸を超える豪農であった。つまり、この表は、少数の大地主のもと多くの小作農家が存在したことを物語るものである。次に表4の「耕地所有ノ広狭ニ依ル地主数」を見てみよう。これは昭和初期の阿久津村における地主の耕地所有を表わしたものである。これによれば地主数五五六のうち一町歩未満の地主が、二一五を数え全体の三八パーセントをしめている。耕地面積が一町歩未満というのは、戦前においても零細農家であり、こうした農家では大地主より土地を借りて小作をしなければならなかった。つまり、この表からは阿久津村における多くの小作農家の存在が推察される。ちなみに一町歩以上三町歩未満まで含めれば、全体の六六パーセントをしめた。
ところで、地主の中でも富農と呼ばれるような大地主は、ムラの草分けであったり、江戸時代には名主や組頭を務め、明治期以後においての区長やブラク長を務めるなどムラの有力者でもあった。中には、明治期以後農業以外の経営の成長によってさらに土地所有を拡大した地主もいる。前述した矢口長右衛門、見目清、加藤正信、宇津権右衛門、鈴木良一、および旧北高根沢村の阿久津徳重などは、銀行業や醤油醸造、売薬製造業を営み所有地を拡大した。
表4 「耕地所有ノ広狭ニ依ル地主数」
五反歩未満 | 八五 |
五反歩以上 | 一三〇 |
一町歩以上 | 一五三 |
三町歩以上 | 十二 |
五町歩以上 | 五〇 |
十町歩以上 | 二五 |
五十町歩以上 | 二 |
計 | 五六六 |
(史料編Ⅲ近現代 三〇二頁)
図27 塀をめぐらした富農の屋敷(石末)