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小作農家

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 小作農家の多くは、自家の耕地を所有しながらそれだけでは足りずに大地主よりさらに土地を借りた農家である。高根沢町には、前述したように多くの小作農家が存在し、こうした小作農家が本県有数の水田地帯を支えてきたのである。
 しかし零細な小作農家では、農業収入だけでは生活が成り立たなかった。そのために男性の場合は、農閑期に薪きりや炭焼きに従事したり、女性の場合は田植え時に早乙女に出たりして現金収入を得た。
 太田のTE家は、戦前水田約四町歩を耕作する農家であった。このうち、自家の水田は約二町歩を所有したが、それだけでは不足するので、二町歩を太田地内の二軒の大地主より水田を借用し小作をした。戦前、小作料は一反当り玄米で少ない場合で四斗、多い場合で六斗くらいであった。当時の反当り収量は、反当り四俵くらいであったというから、小作米の納入量は、小作農家にとって結構な負担であったという。小作米の納入は、アキマデ後、すなわち米の収穫が終了した後であった。遅くとも十二月末日には納入したもので、遅れると督促状が来たという。TE家では、小作米を馬車に積んで、それぞれの地主に持っていった。地主の庭先に着くと、棒バカリで規定どおりの重量があるかを計り、米の等級を検査され、地主側の支持に従い等級に応じた蔵の中に納めた。なお、等級は一等から五等、および等外まであり、大半は三等ないし四等であったという。(大正一五年一一月の「小作米標準等級と奨励米給与の通知」大谷 高龗神社氏子会文書 史料編Ⅲ近現代 八一四頁によれば、五等米をもって標準米とし、六等もあったことが分かる)納入後、領収書を手渡され、お茶や茶菓子、あるいは昼飯をいただき帰途に着いた。また、秋のエビスコには、振舞いに呼ばれたという。
 ところで、地主の小作農家に対する小作米の取りたてには、厳しいものがあったようだ。昭和六年一一月の「熟田村地主組合決議録」(史料編Ⅲ近現代 八三二頁)には、「組合員ハ小作人カ毎年十二月二十日迄ニ小作料ヲ完納セサルモノアル時ハ組合長又ハ理事ニ届出スモノトス」「小作人カ小作米ノ滞納或ハ規定(理事会ノ規定率)以外ノ減額ヲ要求シタル時ハ土地ノ返還ヲ請求スルモノトス」「理事会ニ於テ不良小作人卜認定シタル者ハ組合員ニ通告ス、組合員ハ不良小作人ニ対シテハ小作関係ハ勿論其他一切ノ取引ヲ拒絶スルヲ要ス」等の条文が記載されている。不良小作人とは、具体的にはどのような小作人を指すのか記されていないが、これらの条文からも、地主の小作農家に対する取りたての厳しさが窺い知れる。
 
表5 大正十三年五〇町歩以上ノ地主(抄)(大正十三年) 栃木県
氏  名職業住 所所 有 耕 地 反 別自 作
反 別
  町
耕地ノ主ナル所在郡名及町村数小作人ノ戸数
     戸
田町畑町計町
加藤秋三郎塩谷郡阿久津村三九、六一六、三五五、九---塩谷郡一九四
矢口長右衛門醤油醸造 〃 北高根沢村八九、四三五、七一二五、一--- 〃 一 芳賀郡三 那須郡一二四三
見目  清銀行業 〃一九七、四三二、二二二九、六四、一 〃 三三〇五
加藤 正信 〃一五一、四三〇、三一八一、七--- 〃 三 芳賀郡二 那須郡一二八五
鈴木 長寿 〃六二、四一二、二七四、六二、五 〃 三一〇五
阿久津 徳重銀行業 〃七一、二八、一七九、三一、四 〃 二 芳賀郡一四九
宇津権右衛門売薬製造業 〃七六、四四一、二一一七、六--- 〃 二 〃二二四〇
鈴木 良一銀行業 〃 熟田村一三四、六二二、〇一五六、六一、〇 〃 四 〃一二三〇

(県下の五〇町歩以上地主数は四七名であるが、高根沢町域のみ抄録)   (史料編Ⅲ近現代 八三五頁)