白倉稲荷神社は宝積寺東町、砥鹿神社は宝積寺西町にある。東北本線の路線変更によって、明治三〇年に宇都宮・氏家間が開通し、宝積寺に停車場(駅)が誘致され、明治三二年に宝積寺駅が開業した。同時に設立された宝積寺殖民株式会社によって、宝積寺駅周辺の山林は宅地に開発され、現在の宝積寺西町の南北の道路や宝積寺東町の東西の道路が開削された。道路に沿って宅地が造成されると、阿久津村の村内や近隣村から人々が移り住んで、しだいに街がつくられた。明治三三年には、商店を中心に西町が五一戸、東町が八一戸の街並みができていた(菊池重雄『宝積寺殖民株式会社』)。この商店街をテンシャバマエ(停車場前)といった。そのころ、宝積寺駅南側の狐塚にあった白倉稲荷神社を停車場前の商店街の守り神とした。
白倉稲荷には次のような伝説がある。昔、ある年の一二月にこの地の名主が年貢米を上納するために宇都宮城に行った帰り道、狐塚を通りかかると、白髭の老人が現れ、「我はこの地に住む白狐である。我を稲荷神社に祭るならば、この地を白土蔵の建つような繁栄した町にしよう」と言って姿を消したので、白狐を白倉稲荷神社として祭ったという。
大正二年に停車場前は、宝積寺西町・宝積寺東町に分かれ、白倉稲荷神社の祭りもそれぞれ行うようになり、神社を分けて祭った。東町では大正三年に白倉稲荷神社を東町に遷座して祭った。明治三九年に石末にあった神社が礎神社に合祀されたときに、不要になった星宮神社の社殿を大正三年に東町に移築して白倉稲荷神社とした。西町では昭和七年に下岡本(河内町)の砥鹿神社を遷座し、昭和一二年に社殿を新築した。白倉稲荷神社はその境内に祭られた。初午には初午祭を行ない、赤飯とシモツカレを藁つとに入れて供える。