ビューア該当ページ

宝積寺上・中・下組の天王祭

331 ~ 334 / 766ページ
 宝積寺の天王祭は白鬚神社に合祀されている八坂神社の祭りである。かつては旧暦六月一七日・一八日に行われ、疫病払いのために屋台が練り歩き御輿が渡御した。祭りは行であり、行衣を着て祭りに加わる者は六月一日から水垢離をして身を清めた。一七日は、屋台が練り歩く付け祭りと鬼怒川での船祭りが行われた。上組・中組・下組の屋台が巡行すると、夜は三台が近寄ってお囃子を競うブッコミが行われた。お囃子は五段囃子・つつみ囃子・おくり囃子を演奏した。見物の村人が歓声を上げてブッコミが終わると、神主が祝詞をあげ、若衆がオノット(お祝詞)を唱えながら提灯をかかげて御輿を廻り体当たりをした。お祝詞は、「帰命頂礼 懺悔懺悔 六根清浄 お注連の松竹 権現当社の 牛頭天王様 ごんごんしょうじゃの ごんごんしょうじゃの」と唱えた。その後、当番組の屋台を先頭に、行列が鬼怒川まで練り歩く。行列は、大長持・高張り提灯・榊旗・獅子頭・神主・大傘・神馬・伶人・賽銭箱・御輿・金棒引き・屋台の順であった。大人は頭に宝冠をかぶり白の行衣を着た。夜もふけて中妻につくと、お囃子の人々が鬼怒川に浮かぶ上組・中組・下組のそれぞれの船屋台に移って、鬼怒川を上り下りして演奏する船祭りが行われた。鬼怒川の水流が変化するので、土俵で水流を止めて沼を作って船祭りを行った。船は道場宿(宇都宮市)から船頭つきで借りた。祭りはろうそく一本が燃え尽きるまでの時間で行われ、提灯の明かりが川波に映えて美しかったという。午前三時ごろに祭りは終わり、夜明け方に屋台はそれぞれの組に帰った。船祭りは昭和初期まで行われた。屋台の巡行は、国道の交通が多くなったため昭和三四年以降は行わなくなった。一八日には若衆が御輿を担いで各戸に渡御した。御輿は、八坂神社の御仮屋から南に向かい、中台・鷺ノ谷・石神を経て北に向かい、下組・中組・上組から東に向かい、宝積寺上台・西町・東町から八坂神社にもどった。宝積寺村の村境である西は鬼怒川べり、東は石末との境の天神坂、南は板戸との境、北は中阿久津との境では四方固めを行った。御輿の渡御は昭和二〇年代まで行った。昭和二〇年代以降は、新暦六月一五日から一七日に行った。現在では、七月下旬の日曜日に行われるが、屋台巡行や御輿渡御は行わない。
 宝積寺上組には明治時代には台車の上に幕を張り加藤清正の虎退治の人形を載せた山車があったが、失われて花屋台を引いていたという。なお、高根沢町をはじめ栃木県内では、台車に屋根を付けたものを屋台、人形等を載せたものを山車と呼んでいる。大正二年に鹿沼の千渡宿の彫刻屋台を購入し、大正三年に遷宮の祭りを行った。上組の彫刻屋台には「富田 磯辺松需」とあり、大平町富田の磯辺敬信(六代目磯辺義兵衛、明治一八年没)の製作である。宝積寺中組の彫刻屋台は、明治初期に白沢(河内町)の天祭棚を買い入れて天祭棚として使っていたが、後に二階部分を天王祭の屋台に改造したものである。宝積寺下組の彫刻屋台には明治一一年の彩色修理銘があり、明治四二年と大正二年に車輪を補修した。

図37 宝積寺上組の屋台(『高根沢町の文化財』より)


図38 宝積寺中組の屋台(『高根沢町の文化財』より)


図39 宝積寺下組の屋台(『高根沢町の文化財』より)