これらによって、江戸時代中期には天祭と呼ばれ、日天・月天を祭っていたことがわかる。石末宿では大聖寺住職が導師となってその境内で天祭が行われており、天祭という呼び名は必ずしも神道に由来するものではなく、日天・月天を祭る行事として、この地域に伝えられた呼び名であったらしい。
表1 天祭供養塔
所在地 | 年号 | 西暦 | 銘文 | |
1 | 石末原 | 天明八年 | 一七八八 | 「天祭供養口」「天明八戊申天三月吉日」日輪・月輪の線刻あり |
2 | 宝積寺下組 | 寛政四年 | 一七九二 | 「天祭供養塔」「寛政四壬子年」「宝積寺下組中」 |
3 | 花岡西下組 | 寛政九年 | 一七九七 | 「天祭供養塔」「寛政九丁巳年七月大吉日前高谷村口口若者中」「石工板戸河岸喜一」 |
4 | 石末宿 | 寛政一一年 | 一七九九 | 「天祭供養塔」「寛政一一乙未年八月吉祥日 石末村講中」日輪・月輪の線刻あり |