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昭和四〇年代の花岡の天祭

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 花岡東下坪では旧暦七月三日・四日・五日に天祭を行ってきた。三日をブッツケ、四日をナカビ、五日をブッキリといった。天祭は下坪の上組・下組の若衆頭である若衆世話人がとりしきった。天棚に上がる二人の御行様は、白の行衣を着て宝冠をかぶり、祭りの三日間は行屋にお籠もりした。御行様の世話役はオトモリ(乙守り)といった。若い衆が上半身裸で天棚のまわりを行列して回ることを裸参りといった。白鳥神社の境内には大日如来の宝塔があり、「梵字(バーンク) 明暦二年丙申 朝友開之」とある。天祭のときはこの大日如来を祭ったといわれる。
 八月三日までに白鳥神社の境内に天棚を組み立て、午前一〇時からブッツケの行事が始まった。行人と裸参りの若衆が近くの五行川の川岸の行場で身を清め、天棚の二階の日天・月天に供物を供えて拝礼し、若衆が天棚の回りを行列して回る御来迎を行った。これを裸参りとも言った。一方、囃子方は御来迎の囃子を演奏した。天棚の前には清めの水の入った樽が三本の高い脚棒にくくりつけてあり、行道する裸の若衆が樽を揺すってもみ、水を掛けあった。一度の行道でこれを三回繰り返し、一日に四回の行道が行われた。夜の行道では「しばらく、しばらく、風雨順調、村内安全」ではじまる「ほめ言葉」が語られた。この天祭は、昭和四八年には町指定文化財に指定されたが、そのころから祭りは中断した。

図55 昭和40年代の天祭(花岡)


図56 昭和40年代の天祭での御来迎(花岡)