一年のある決まった時期に毎年繰返して行われる家の祭りを年中行事という。
わが国の年中行事を観察すると、一年を二期に分けていたこと、新しい年の初めの行事には祖霊信仰が色濃く見られること、春と秋の行事には稲作を中心とした農耕儀礼が見られること、といった特色がある。
たとえば正月は元日より始まり、七日には七草粥の行事があり、一四日・一五日頃にドンドン焼きをはじめ、アワボ(粟穂)・ヒエボ(稗穂)などを飾りつけたり、小豆粥を食べたりするなど重要な行事が集中する。一方、盆行事は七月一日のカマップタツイタチより始まり、七日の七夕を経て一三日から一六日の間に本番となる。また、正月には歳神様を迎えるために歳神棚を作り、盆には先祖の霊を迎えるために盆棚を作る。正月にはドンドン焼きの火祭りが行われるが、盆にも先祖の霊を迎えたり送ったりするための迎え火や送り火を焚く風習がある。その他、春と秋に彼岸があり、エビスコ(恵比須講)は一月と一〇月に行われる。
このように、一年のうちには正月と盆を中心として対比される行事が多い。つまり、古くは正月と盆を中心に、一年を一月から六月までと七月から一二月の二期に分けていたものと思われる。そして、年の初めの重要な行事である正月と盆には、我々にとって最も大切な信仰対象である先祖の霊(祖霊)を迎えて祭りを行ったのである。
一方、春と秋の行事は農耕との結びつきが強く、春は初午や三月・五月の節句などに見られるように豊作を祈願し、秋には十五夜・十三夜、ジジン様、恵比須講などに見られるように農作物の無事収穫を祝う行事がある。
ところで、年中行事を行うための目安となった暦であるが、わが国では中国よりもたらされた月の動きを中心に、太陽の動きを補助的に取り入れて作った太陰太陽暦を用いていた。ところが明治五年、明治新政府は欧米が採用している太陽暦を取り入れ、従来の太陰太陽暦を旧暦、それに対し太陽暦を新暦と称するようになったのである。しかし、庶民の間、特に長らく旧暦を農耕の目安としてきた農民の間には、新暦はなかなかなじまなかった。高根沢町で新暦が定着するのは戦後の昭和三〇年頃のことである。
この新暦と旧暦との間には約一ケ月のずれがある。年の初めの大切な行事である正月は、一月一日から始まることにそれほどの抵抗はなかったようであるが、盆の場合、七月に実施すると農繁期の真っ只中で、また、梅雨が開け切らず、本来初秋の行事である盆とは季節感があわなくなった。そのため、「月遅れ」と称して一ケ月遅れで盆が実施されるようになった。この他、旧暦で実施していた行事を新暦で実施するようになると、旧暦ではあり得なかった節分の前に初午がやってくるなど暦の混乱が見られ、そのことが年中行事を複雑にする一因となっている。
ここでは昭和三〇年代頃の様子を中心に述べたい。この頃はまだ旧暦が主となっていたが、節分、彼岸、二百十日など太陽の運行に基づいたものについては新暦の中で行われるようになった。
このような年中行事は、町場や農村、山村など生業の違いからくる暮らしによって多少異なる。また、その内容、特に供物や食べ物などは、「家例」と呼ばれるその家独特のならわしがあり微妙な違いがある。一方、核家族化が進み年中行事の伝承がとどこおったり、新生活運動や稲作の大規模な変化などによって年中行事が大きく姿を変えたり、ほとんど行われなくなったりしているものも多い。
高根沢町は隣の氏家町や芳賀町と同じように、大部分が五行川流域に位置して稲作中心の生活がなされ、年中行事もほぼ似通っている。この地方の特有の行事としては、正月一四日に供える団子のひとつであるオムツラ様や初盆の家で庭先に飾り立てるタカンドウロウ(たかん灯篭:高い灯篭の意)などがある。