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餅つきと納豆ねせ

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 正月用の餅つきは二八日に行う家が多く、また三〇日に行う家もある。一方、二九日は「苦」に通じることから、この日につく餅をクモチ(苦餅)と称してつくのを嫌った。また、大晦日も「一夜餅は良くない」などといってつくのを嫌った。もっとも現在は、親類、兄弟が遠方にいることが多いので、二〇日前後に一度餅をついて送り、自分の家で食べる餅や供え餅などは改めて二八日にと二度つく家が多くなった。
 餅は歳神棚をはじめとする神仏への大切な供物であるとともに、正月の食べ物でもある。したがって戦前は、大きな農家では小作人がみんな集まり、一日がかりで一斗や二斗も餅をついたそうである。町場の商家でも、餅つきは奉公人がそろっての一大行事であった。
 近年は機械で餅をつく家が多くなったが、中には今なお昔ながらに臼と杵とで餅をつく家もある。ともあれ、臼と機械という餅つきの違いはあっても、一回目につく餅は「臼洗い」といって供え餅は取らないならわしがあり、二回目に供え餅を取る。また、海苔や大豆などを入れた豆餅や海苔餅は、臼が汚れるので最後につく。
 供え餅は大小の餅を重ねたものである。供える日は三〇日か大晦日とする家が多く、供える場所は歳神棚をはじめ、大神宮様、恵比須様・大黒様、仏壇、お釜様、床の間、納戸、厩、井戸、便所、蔵、納屋などである。普通は半紙を敷いた上に重ね餅をひと重ね供えるが、中には床の間へおひつの中に小さな餅を二一個入れ、その上に三重ね供えたという家もある。また、「祝い餅は声に出して数えない」という風習がある。
 なお、石末の宿には三〇日にカクレモチといって、供え餅はつかずに三が日過ぎてから家族が食べる餅だけをついた家がある。この家では正月三が日は赤飯を炊き、歳神棚をはじめとする家の神仏に供えるとともに三度の食事にも用いた。正月の供え餅を作らない理由として「明治三〇年代の暮れに大きな火事があり、当時石末宿には二六戸あったが、そのうち五、六戸が焼けた。以後、正月餅をつかなくなった。」といい伝えている。代りに一月一四日に餅をつき、それを神棚に供えている。なお、年があけてからつく餅をワカモチ(若餅)といっている。活力に満ちた若々しい餅という意味である。
 このような正月に餅を供えなかったり、食べなかったり、あるいはつかなかったりすることを民俗学では「餅なし正月」といっている。全国各地に餅なし正月の事例が見られるように、「表面的には餅による単一化されて見える正月儀礼も、実は儀礼食から見ると餅だけではなく麺類やイモを用いる複合的な性格を持っている。餅なし正月伝承は特別なことを示したものではなく、むしろ庶民生活の実情を儀礼化したもので、建前上公的に進んだ稲作単一化と実際の庶民の複合的な食生活との差が生み出したといえる」(『日本民俗大辞典』)。石末宿では正月の供え餅を作らない理由づけがされているが、同じような理由づけは餅なし正月を行っている家に広く伝承されている。餅が一般的になっている中で、餅をつかない家が奇異に見られるのを回避するためであった。

図4 蒸かした餅米を練る(大谷)


図5 供え餅を搗く(大谷)


図6 正月の供え餅(大谷)