我が国の伝統文化の中で芸能の果たした役割は大きい。とりわけ能・歌舞伎・文楽などの代表的な古典芸能は、プロの演者により代々受け継がれ、広く海外でも高い評価を受けている日本文化の顔の一つである。このうち文楽が人形芝居であり、操人形浄瑠璃芝居というのが正しい呼び方である。
文楽は、一八世紀末に現在の兵庫県淡路島出身の浄瑠璃語り植村文楽軒が大坂道頓堀に操人形の座を創設したのが始まりで、後に文楽座と称した。当時は他にも多くの操人形座があったが、大正初年にはこの文楽座ただ一つが残り、その後文楽座の文楽が代名詞となり、操人形芝居のことを単に文楽と呼ぶようになった。三味線伴奏の語り物音楽の一つである浄瑠璃に合わせて操人形芝居が行われるもので、浄瑠璃の中でも発声・曲節・三味線が多様化し、初期のものは古浄瑠璃と呼ばれるが、後には常磐津節・清元節・新内節など数十種の流派が次々に派生した。元禄年間(一六八八~一七〇四)に、竹本義太夫・近松門左衛門らによる人形浄瑠璃の義太夫節が代表的存在となり浄瑠璃の称は義太夫節の異名ともなった。
栃木県内で現在も行われている操人形浄瑠璃芝居は、鹿沼市奈佐原に伝わっている奈佐原文楽のみである。この文楽は、文化年間(一八〇四~一八一八)にはすでに一座があったといわれ、昭和二八年一月に栃木県の民俗文化財の指定を受け、さらに昭和四六年四月には国選択の民俗文化財にも指定された。その他、栃木県内には足利市毛野・馬頭町大内・小山市乙女・葛生町葛生・芳賀町稲毛田などの多くの地区に、昔使った人形の頭や衣裳が残っていたり行われた歴史が伝わっていて盛んであったことが分かる。
町歴史民俗資料館には、現在一九点の人形芝居用の人形頭が保管されている。これは伏久に残されていた人形芝居の頭である。