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由来・伝承

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 伏久の人形芝居についての詳しいことは、明治初期頃に上演が絶えてしまったので分からない。残されている頭から、この人形芝居は主遣い・左遣い・足遣いの三人で動かす三人遣いの操人形浄瑠璃芝居であったことがわかる。
 また、この人形芝居に係る史料が残っている。上柏崎・鈴木勝家に伝わる、嘉永元年(一八四八)申八月付の「差出申一札之事」(史料編Ⅱ近世五九九~六〇〇頁)である。これは、台新田村(亀梨・上柏崎)の若い衆が八月の風祭の行事に、伏久の人形芝居を頼んで座敷浄瑠璃芝居を大々的に催し、見物人も多く集まったため、八州取締役から人寄せ禁止令違反のおとがめを受けた。そこで若衆が心得違いであったと連名手印を押して村役人に出した詫状である。
 史料編Ⅱ近世の解説文には、「喜連川領伏久村に伝わっていた人形芝居は、明治初期まで継続されていたが明治初期に火災のため焼失し「カシラ」(頭部)だけが現在も残っている。」と紹介されている(六〇〇頁)。
 人形頭は伏久地区内にあった舞台小屋に保管されていたが、昭和三六年頃に、当時の栃木県文化財保護審議会委員で宇都宮大学教授の野中退蔵氏などの計らいで、鹿沼市の奈佐原文楽へ伏久の人形頭が数体譲り渡しされたこともあった。

図37 伏久の人形頭(町歴史民俗資料館蔵)