昔、この地に門付けに来た二人の瞽女が花岡付近を流れている五行川に架かる橋に差し掛かった。瞽女は目の見えない女が三味線を引きながら家々を回る旅芸人で、いつも目の見える者が案内して歩いている。その日も目の見える瞽女が先にたって目の見えない瞽女を案内していたが、どうしたはずみか、その目の見えない瞽女が足を滑らせ下を流れる五行川に落ち、大きな渦に飲み込まれてしまった。
やがて、その橋のたもとには白い蛇が見られるようになった。渦に飲み込まれた瞽女はその時一二歳だったので、その橋を「十二瞽女橋」と言うようになった。(『子どもが書いた ふるさとの伝説集』・菊地重雄)
瞽女とは、目の不自由な女性が目の見える女性に案内されて各地を門付けと称して三味線の演奏に乗せてさまざまな物語を語り聞かせる旅芸人のことである。東北や北陸を中心にいくつかのグループがそれぞれの興行圏を持っていて、最盛期には千人を超える瞽女が活動していたが、戦後は衰退の一途をたどった。瞽女を受け入れる地域には、彼女たちが泊まる定宿があり、多くは旧家や地主の家であった。その家の座敷や縁側で、哀調を帯びた三味線の音に合わせ、「葛の葉子別れ」や「石童丸」などの物語を聞かせた。ラジオやテレビがない時代には、こうした旅芸人のもたらす芸能が農作業の疲れを癒す娯楽の一つだったのである。
高根沢町でも、昭和三〇年代ごろまでは農閑期のころになると新潟方面から「越後瞽女」がやってきて、心に沁みる芸を披露してくれたということである。また、瞽女の他にも宇都宮からは「宮神楽」、水戸からは「水戸神楽」と呼ばれていた一座が、玉乗り・皿回しなどの曲芸や獅子舞を披露し「家ごめ」(家内繁盛や豊年満作を祈願すること)をして歩いたということであった。「阿久津河岸」と言われるほどに賑わいを見せていた時代は、交易交通が盛んで多くの人々が行き交っていたことであろう。
橋とは関係ないが、昔、旅芸人の太夫が行き倒れて死んだ場所なので「太夫山」と呼んだとか、山伏が死んだところなので「山伏箱」と言われているなど、旅芸人や旅の中で修業をした僧に係わる地名も高根沢町にはいくつか残されている。