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〔おつぎ橋〕

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   荒川村の鴻野山北方台地に「朝日の長者」という飛ぶ鳥も落とす勢いで栄えていた長者が住んでいた。百人を超えるほどの使用人を抱えていた長者で、酒も飲み干すことができず捨ててしまうほどの贅沢ぶりであった。そこで、酉の日には有り余った米で酒を作り、板戸まで運び売りさばいていたが、ここ文挟付近の井沼川に架かる橋が、あまりの重さに壊れかねないので、周囲の人々に酒を分け与えていた。そこで、その橋をおつぎ橋(またはつつぎ橋)と呼ぶようになった。
   なお、酒蔵のあった場所を「百駄窪」、精米した糠を捨て山のようになった場所を「糠塚」、窪地に厩を作り沢山の馬を放牧していたので「厩窪」、鍛冶を沢山住まわせ刀剣を作らせていたので「鍛冶ケ沢」と呼んだという地名由来の伝説も残っている。
(『高根沢町の伝説集』・『高根沢町郷土誌』)

 
 酒は米から作られる。また、酒を作れるのは杜氏を雇うことができる資産家でなければならない。沢山の酒蔵を持っているのは長者のあかしでもある。豊作豊穣を願う思いがこの伝説を生み出したのであろうか。「朝日さす、夕日輝く」の歌で財宝の在処を示す物語で有名な長者伝説が「朝日長者」である。多くは、その権勢を誇るあまり、やがて没落して行く運命を描いている。太陽を支配しようとして死亡したり、一日で田植えを済まそうと夕日に注文をつけたために田が荒れて没落するという物語りの内容を持つところから、本来、農耕儀礼に係わる太陽信仰から生まれた伝説であろうと言われている。
 また、南那須町鴻野山の長者ケ平遺跡は、最近の調査で古代の官道であった「東山道」の駅舎跡ではないか言われているが、「長者ケ平」という名前がついた場所も国内には多く存在する。そして、必ずと言っていいほど、火を出したり焼き打ちに逢ったりして、火災で没落しその跡からは焼き米が発見されると言う伝説がある。鴻野山の「長者ケ平」にあった長者屋敷も、八幡太郎義家が奥州征伐に行く途中でその屋敷を焼き払ったという伝説を持っている。

図5 「おつぎ橋」があったとされる現在のJR烏山線鉄橋。かつてこの一帯は湿地であったという。(文挟)