その男の俗名は寺田治兵衛と言って、大阪和泉郡の一ツ橋家領地の庄屋惣代をしていた。しかし、幕末のころ、打ち続いた凶作による土地争いに巻き込まれ、罪人の汚名を着せられてしまった。そして、ここ上高根沢にあった一ツ橋家の陣家の座敷牢に入れられてしまったのである。
一ツ橋家陣家近くには行商人や旅芸人を泊める木賃宿があり、そこに逗留する人々の口に「陣家に捕らえられている罪人を面倒見ているのは大きな古狸だから、陣家に近づくな、古狸に取り憑かれるぞ」という噂が交わされるようになった。
やがて、この地域一帯も凶作に見舞われ、食物を与えられなくなった囚人は衰弱して息を引き取った。その日の夕方、陣家から一片の黒い雲が立ち上り、そこに二、三匹の狸が乗っているのを見た者がいたそうだ。
(『高根沢町の伝説集』)
上方治兵衛については古口利男氏がかなり詳しく調査されていて、史実としても貴重な記録ではないかと思われるものである。
ただ、古狸が出てくるところなど、史実から伝説へと変化してゆく姿や話の背後に行商人や旅人の姿がちらついているのは、そこに伝説を育て広めてゆく人々の姿が見え隠れしてるということでもあって、伝説がどのようにして形成されてゆくのかがよく判る、貴重な伝承でもある。