近くの人に分け与えていた救命丸も,一橋家(ひとつばしけ)とかかわりをもつようになってから,広く親しまれるようになりました。
1824年の一橋領(りょう)のおふれ書きに,当時大流行した「はしか」の予ぼうとして,おまじないの他に「宇津権右衛門売薬の救命丸を一つぶずつせんじて飲むこと」とあります。領主(りょうしゅ)も地元の薬を広めるのに積極的(せっきょくてき)でした。
江戸(えど)時代後期(こうき)には,地方へと広まり,全国の人の出入りが多いところに取次店が置(お)かれ,薬を売るようになりました。当時の取次店は,関東地方を中心に374か所にものぼりました。
明治(めいじ)時代になると,製薬会社(せいやくがいしゃ)を設立(せつりつ)し,薬問屋(どんや)を通じて全国の小売店で販売(はんばい)されるようになり,現在(げんざい)の「宇津救命丸」の名前になりました。
- 〇はしか
- 当時のはしかは,多数の死者の出る伝せん病の一つでした。