[読み下し文]

逸翁略伝



 
逸翁略傳
 
          寛政八年丙辰七月五日
                薫教謹書
 
 逸翁は下毛高根沢の人、
郷は姓多大にして翁は其の一也。
姓は宇都、名は重上、字は元靖、晩號は逸翁。
其の先は宇都宮氏の庶族、宇都宮氏封除後居を高根沢西根の邑に徙し、
家世々邑長にして医術を伝う。
少時慨然として人に謂いて曰く「凡そ経世の道は稼穡より急なるは莫し。
人を救うの方は医術より先なるはなし。
衣食既に足り、身に疾病無ければ則ち衜其れ庶幾乎」。
年甫めて十五江府に游び博く医術を学ぶ。学就りて家に帰る。
是に於いて稼穡の務を惟し旁医事を行いて自ら謂う「【よ】菑のこと廃さず箕裘の業を墜さざれば則ち吾の願い足れり」と。
居ること幾無くして戸田侯の命により邑正と為る。
職に在りて頗る劇しくして専らの医事を行うを得ず。
戸田侯封を嶋原に徏す。
邑は一橋に属す。
府の封令により翁又邑正と為る。
如故性恭倹上に奉じ愨慎寛厚、人に接するに予め必ず廉なり。
職に居る事数十年事に遺漏無く郷黨隣里靡然として其の風を慕う。
人の為には清真之に望むに纚々然として風塵に表骨あり。
都下を来往すること数十年未だ嘗つて騎乗せず、恒に木履を着し、瓢揺として来り他に行装なし。
晩に至りて此の如し。
郵舎の女児偉人と称す又ここに至るも年耄すれど耳聡きを失はず、目明らかなるを喪はず性又寡欲其の買物の価の貴賤を論ぜず、乞い取るの後に従うを恒となす。
姦商黠賈と雖も敢えて之に欺されず人に便宜なるを以って之を告げざるは無き也。
其の寛厚大率此の類なり。
宝暦癸酉翁年六十、年耄なるを以て上書し、職を免ずるを請う。有志其の能を愛し可かず六年又請う聴かず安永乙未二月翁年八十既に耄す。
〓骸骨を乞う。
公焉迺使の曾孫女に薫教を贅するを命じ代りて邑正となす。白金若干を翁に賜う。
薫教本姓は黒崎。
翁養って嗣となす。
翁男子なく為に女及び孫女をして贅を納む。以て才は百里に任ぜず為正に令せず。
自ら謂う「邑正の職は賎くも一郷のみ関係すると雖も其の人を得ざる可からざる」と薫教の幹其のことに及びて翁の意殆んど安んず。
ここを以って曾孫女を配す。
ここに於いて専ら医術を行い多くの窮民を救うも未だかつて其の報を望まず。
家に禁方あり、名は金匱救命丸。
毎に神効を試す。
是より前一橋公愛する所の鷹俄かに病し殆んど死す。之に一丸を投ずれば則ち甦える。
衆愕いて曰く「禽鳥にして尚然り況んや人に於いておや。」
是より朝野翕然とし恐後して得、安永七年秋七月五日病を以て家に歿す。
享年八十有四。
歿するに臨みて薫教を召して遺属して曰く「汝の祖汝の厥堂を構えて余辱うす。両藩の命六十六年茲に於いて汝夙夜上に奉じて懈匪下を育てよ。且つ吾が家の堂宇は旧なり。汝吾がために之を起せ。」
薫教再拝して其の遺属を受く、薫教職に居ること一に翁の教の如くす。
天明三年命により県吏となり塩谷郡の事を知す。姓を賜い両刀を佩すを許さる。
寛政六年二月給月棒五口且つ公所への乗馬を賜はる。
同年大いに堂宇を起し頗る輪換の美を致す。
是の歳翁の死してより十有七年を距つ。翁の志は薫教之を成し、書に因りて梗概を附記して以て末云に伝う。
  寛政六年甲寅冬十有二月
   肥後処士大田驤謹書併書