宝塚の一大舞台となる土地は、広い面積を占める二つの山地(六甲山地・北摂山地)と一つの平野(武庫平野)からできている。そしてそのなかを、武庫川が広びろと流れてゆく。今、この河川をはさんで人口一六万の宝塚市が成立しているが、昔は武庫川が町村の境界線であり、さらに郡界の役めをもはたしてきた。こうして武庫川は長い間、地域を分離させるに役だってきたが、現在では、むしろさまざまな面でたいせつな結びめと変わり、市域の中心的機能をはたしている。この武庫川に培(つちか)われて、古くから、山地と平野で宝塚の歴史がくりひろげられてきたのである。
さて、宝塚はなぜこのような山地と平野から成りたっているのであろうか。この理解には、われわれは何億、何千万年という古い地球の歴史をふりかえる必要があり、また眼にはみえないが、休む間もなく活動している地殻変動の実情も知っておかなければならない。われわれが今、仮に宇宙衛星に飛びのって空高く舞いあがったとしよう。地上一~二キロメートル程度の高さでは、建造物も走る車もよくみえる。しかし七~八キロメートルにもあがると、もうそうしたものはみえなくなり、武庫川の流れから、わずかに宝塚の位置が判断できる程度となってくる。さらに上昇してみよう。一〇~二〇キロメートルになると、その視界は広くなり近畿南部が一望のなかに入ってくるが、もはや宝塚がどこかは確認できない。ただ大阪湾にのぞんで、山また山の間に、わずかに平野らしいものがみえるにすぎない。おもしろいことに京都の南あたりから、西南西の方向をとって、くっきりと一本の線が走っているのに気づく。その線はさらに延びて、兵庫県の西部に向けてつづいている。この線こそ、近畿の一大地質構造線、いわゆる大地の割れ目なのである。望遠鏡でのぞいてみると、驚くことにわが宝塚はまさにそのうえにのっかっている。そして文字どおり山地と平野の継ぎめに立地している。
この高さまで来てみると、宝塚の土地、いや近畿一円の土地さえも、何の変わりばえもない山と平野の一連の姿にすぎない。高度をさらにあげて、数百キロメートルにのぼってみよう。するとやがて日本列島全体がわれわれの視野におさまってくる。そしてわれわれはまた別な事実に直面する。どうやら日本列島そのものが地殻のうえの大きな一つの高まりであり、それも大陸や太平洋とのかかわりのなかで、横から押された形で弧状に大きく連なっているようにみえる。
ここまで眺めることのできたわれわれの宇宙衛星は、高度をしだいにさげて、再びもとの宝塚の地に降りたつ。その時の印象は、ここが何とこまごまとしていて複雑にみえるのであろうかということである。しかし、これは当然のことで、そこには何億、何千万年このかたの自然の刻みめが、しっかりと残されているからであり、また数千年来の人間の手になる加工や装飾が、隙間なくそのうえをおおっているからなのである。