縄文・弥生の時代

5 ~ 6 / 532ページ
知恵ある人間は、まもなく土器を発明する。一大発展である。これを使うことで食糧も貯蔵が可能となり、彼らの生活は、その日暮しから脱却して、しだいに食糧を生産する段階に移行する。人びとのつくった土器は多様であって、その詳細は本文の説明にまつとしても、最も代表的な土器に縄目模様のあることから、この時代を縄文時代とよんでいる。しかし、無土器時代に石器を残している宝塚市域であるのに、縄文時代の遺跡はまだ一つも発見されていない。今後の問題点の一つであろう。ただ、すでに自然環境の項でも述べたように、縄文時代は、世界的な気候変化にともない、いちじるしい海水面の上昇と沈降のあった最後の時期にあたるから、当時の遺跡立地のうえに、かなりの変遷のあったことも想像できる。そのころの海岸線は、現在の阪急電車神戸線のあたりにあったと考えてよかろう。
 数千年にわたる縄文時代が過ぎると、弥生時代に入る。大地はすっかり安定し、使っている石器や土器にいちじるしい進歩があるとともに、あらたな生活用具として金属器があらわれ、人びとは生産活動に力を入れてくる。またすでにきざしのみえた稲作農耕は、しだいに広がっていくが、まだ河水灌漑(かんがい)を行うだけの力はなく、もっぱら沖積地の低湿地帯を排水して直播(じかまき)栽培をしていたようである。やがて生産力が高まるにつれて人口も増加し、平野部に進出してゆく。人びとは血縁を越えて、近隣の人びとともさかんに接触するようになり、その近隣同士がやがてムラの方向にむかって統一をはじめてくる。それと同時に、かなり遠方の地域との間に交流がおこなわれはじめる。宝塚付近でもすでにこの時代に、石器の材料や土器の類がはるか離れた地方から運びこまれてくる。しかし人びとが活発に活動をはじめるのに比例して、当然のことながら、やがてムラ同士の対抗や競争をよび起こしてくる。