古墳時代

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大多数が、文字を知らず、したがって記録を残すすべのなかった当時の人びとが、われわれに与えてくれた最大の遺産は、遺跡・遺物と伝承である。そこでわれわれはそうしたものを通して古代の歴史を繙いていこう。当時のもっとも重要な遺跡が古墳であることから、古墳時代の名称が生まれ、時期のうえで前期・中期・後期の区分がおこなわれている。宝塚にも各時期の大小さまざまな古墳が残っている。まず、前期の万籟山(ばんらいさん)古墳と安倉(あくら)高塚古墳は、早くから著名である。これらは弥生時代までの共同墓地にみられる墓と異なり、一定の計画のもとに多くの労働力を動員して築造され、地域支配者の権威の象徴として設けられた政治的記念物である。万籟山古墳は山頂から平野をのぞむ位置にあり、下の支配地から仰ぎみるべきものであった。また呉(ご)の鏡を伝えられ、安倉高塚古墳に葬られた首長は、武庫川流域にいた人びとを支配していたのであろう。中期には長尾山古墳と、中山寺の「安産の手水鉢(ちょうずばち)」とよぶ舟形(ふながた)石棺をおさめていた古墳をのぞくと、市内での古墳の築造はみられない。ところが後期になると、全国的にもみられるように、市内でもにわかに多くの古墳がつくられ群集墳を形成する。これはひとつには横穴式石室の採用が大きな原因である。宝塚での古墳時代の最大の特徴は、他の地方でほとんど古墳がつくられなくなった七世紀前半になって、特殊な小型横穴式石室古墳がなお多くつくられ、群集墳を形成していることである。これは古墳を築造した人びとの階層の変化を、歴史の流れの中でとらえていくべき問題であろう。