大和国家が確立し、範を中国にとって法律によって国を統治する制度を律令体制とよぶが、中央における政治機構はともかくとしても、ここで問題となるのは国―郡―里(のちに郷と改名)という地方の支配機構である。津国(つのくに)(後に摂津国となる)のなかには一二~一三郡が設けられ、そのなかに現在の宝塚市域を含む川辺・武庫・有馬の郡名がみえる。またこの三郡のもとには、さらにそれぞれいくつかずつの郷が属していたはずであるので、それらの一つ一つについて旧位置の比定がおこなわれる。
古い郷名が残りにくいように、当時の班田収授(はんでんしゅうじゅ)に使った条里遺構も、一〇〇〇年以上もたった今日では、市域にもわずかしか残っていない。そうした条里遺構について、いちおうの復元をおこなうとともに、なぜ、どのような方法でそれを実施したかを追求してみる。するとそれはどうやら古墳時代の首長たちによる水田開発とその支配体制に源流のあることがわかってくる。同時に一大古墳の築造に使われた多大な労働力は、水田開発のそれと無関係でなく、そうしたものがやがて小国家の成立の原動力となったことを理解する。もちろんこれら小国家の長たちも、やがてより大きな国である律令国家のなかで、郡司や里長に移行するのであるが、時代が大きく変わっても、農民たちの生活内容はいっこうに変わらず、むしろその負担が増加してゆく。この辺の事情について、さまざまの観点から検討する。そしてさらに『延喜式(えんぎしき)』や『摂津国正税帳案(せっつのくにしょうぜいちょうあん)』のなかの記載にもとづいて、宝塚付近の農民たちが何をつくり、何を納め、何を輸送していたかを明らかにする。