道路と社寺

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輸送と密接な関係をもつ道路には、いわゆる「西国街道」のほかに、その枝道、古くから知られる有馬温泉へのルートがある。また西国街道にはそれに沿っていくつかの駅家(うまや)があった。同時にそれに使う駅馬や、軍馬を飼育する牧場が付近に存在していたと思われる。すでに十数世紀もたった昔の道を求めて、史料と地図をよりどころに、その一本一本を明らかにするのは意外にむずかしいことである。しかしそれを通って役人たちが往来し、荷物を運んでゆく庶民の姿を考えると意義ふかいものがあろう。このように、主要街道は、当時の国と国とを結び、同時に都に連絡させるといった政治的意味が大きかったが、このほかに存在した道路の役目もみのがせない。たとえば心のよりどころとなる神社や寺院へむかう道路がこれである。
 摂津国には延喜式内社が六二社もあり、市内には売布(めふ)神社と伊和志豆(いわしず)(津)神社が残っている。このほかにも多くの神社が当時あったと思われるが明らかでない。現在と同様、いなそれ以上に、村人たちはそこを中心にさまざまな農耕儀礼をおこなっていたことが想像される。神社の起源が村の起源と同様に古いのに対して、寺院の方は仏教伝来以後のことに属する。しかし信仰はいうまでもないとして、彫刻・建築・絵画をはじめとする日本文化発展のうえにもたらした寺院の影響はきわめて大きいものがある。その意味でも、由緒(ゆいしょ)ある観音霊場の中山寺と、清荒神(きよしこうじん)で知られる清澄寺(せいちょうじ)は忘れられない存在である。