中世の農民たちにとって、うえからの支配体制の点では、その収奪ぶりには大差はなかったが、ただ前時代の農村生活に比べて、はるかに自由であった。上層にのぼる機会も多分にあったし、土地に強くしばりつけられておらず、広い天地に飛びだすことも可能であった。これには貨幣経済が発達し、定期的市場という商品売買の場が出現し、同時に問屋機構ができてきたことなどもあずかっている。したがって農村でも二毛作が普及し、余暇や余剰労働力を使った地方産業が各地に発生してくる。
この時代、宝塚付近はどんな状態であったのだろうか。荘園のなかでも多田荘は、平野部でも山間部でも、多田御家人とよばれる人びとが勢力をふるっていた。そして南北朝から戦国の時代になると、やがて国人(くにうど)層となって活躍する。のちに伊丹地方に城を築く伊丹氏、池田をその根拠地とした池田氏なども、こうした国人層から出たものである。
中世で重要なことは郷村の成立である。支配層への抵抗が、ときに一村逃散(ちょうさん)となってあらわれた実例が、市域の玉瀬や大原野の村むらでみられる。もちろんこれは一時的の現象で、本来的には踏みとどまって耕作に励んだにちがいないが、ときにおこなう一村あげての逃散行為が一致団結を促進させた。逃散は支配層への反抗であったが、結果的には、乱世に生きぬくため、村が自治体制の方向に歩みだしていたことを物語っている。このようにしてできあがってゆく村こそ、実は近世―近・現代へとつづく村落の原型なのである。
市域の西谷地区には今もかず多くの中世石造物が残っている。しかもこうした山のなかでと思うほどりっぱな石碑である。また同じく堂坂では、壺(つぼ)に納められたおびただしい量の銭貨が地中からみつかっている。山地という交通遮断性(しゃだんせい)のゆえに、偶然こうしたものが残ったと考えるには、あまりにも価値がありすぎる。そうしたものの残る重要な意味がきっとあるに相違ない。
平野部と山地部の境目を二本の重要な道路が走っている。その一つが有馬道、他の一つが巡礼道である。これら二本の道は、いずれも武庫川沿いに西にむかうが、途中から温泉にむかう有馬道と播磨(はりま)方面に進む巡礼道とが分離する。いずれの道も一度は荒れ川の武庫川を渡らなければならないから、その苦労のほどが察せられる。生瀬(なまぜ)橋や浄橋寺(じょうきょうじ)をめぐる山賊の話も、そのあたりの実情を物語ってくれる。