近世の開幕

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織田信長の台頭で戦国乱世の時代は終わり、つづく豊臣秀古、徳川家康の天下統一で近世の幕があがる。このころ、宝塚付近では信長に抵抗した荒木村重の反乱があって、中山寺・清澄寺・浄橋寺をはじめ、米谷・安場(やすば)・川面(かわも)・安倉の村むらが兵火にかかる経緯(いきさつ)がある。このとき焼失した資料や財宝は惜しみてもあまりあるものがある。天下が秀吉の手に移ると、まもなく「太閤(たいこう)検地」が実施される。これにより、従来かなりゆるやかに土地と農民とが結ばれていた中世の支配体制が、一挙にして、もはや抜きさしならぬ枠(わく)ぐみのなかにはめこまれてしまうのである。村ごとに一筆単位の土地面積が測量したうえで記録され、同時にその所有者がはっきりと書きあげられたというわけである。もちろんこの方法は徳川時代にも同様に受けつがれてゆく。秀吉はまた一方で「刀(かたな)狩り」をおこない、農民たちの武器所有を一切禁じたから、ここでも中世にみられたような農兵の姿はまったく影をひそめ、農民と武士とは明白な別階層に属することになってしまった。
 徳川三〇〇年の間、もはやこの地方には戦火もなく、比較的平穏な日々がつづく。したがって中世以来の古い村むらも、村切りでできた新しい村も、それぞれの領主のもとで農耕にいそしむ。しかし一方では村びとの生活に大きくかかわる柴草・用水をめぐって村同士、郡相互がいわゆる「山論」・「水論」を展開して争い、有馬や丹波・播磨への交通路に沿う小浜宿では、同業の生瀬宿との間に多年にわたる紛争が起こっている。またこのころ山地部の西谷地区では、中世、多田荘の一大財源となっていた銀山が、近世になっても衰える気配をみせず、多数の関連鉱山が、徳川氏の直轄となり、代官支配のもとで経営され、千本銀山が繁栄した。したがって西谷地区の多くの村むらは「多田銀山付村」と指定されて、銀山経営にかかわりを持ってくる。このことは後世までも、西谷地区に一つの特異性をもたらす一因となる。
 江戸時代の初期にみられた「北在の酒造り」とよばれる小浜・中筋・安倉・米谷・鹿塩(かしお)の酒造業もなかごろになると消滅し、むしろ平野部農村では大阪を中心とした流通機構のなかで、しだいに商業的農業を営むようになってくる。菜種つくりと綿作が一般的となり、山本では植木栽培が発展してくる。そしてまもなく村のなかに在郷商人層を生みだすとともに、村びとの間に階層分化が進んでゆく。一方山地の西谷の村むらでも農閑を利用した瓦焼き・樽造(たるづく)り・箕(み)つくりがはじまり、松茸・薪・木材などの山の幸を平野部に供給する姿がみられる。こうした労働の一面、ささやかな娯楽面も存在し、今も各地に残る農村舞台や行事のそれから当時の様子をうかがうことができる。