明治期と宝塚

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明治維新を迎えたといっても、長かった幕藩体制のもとの諸制度や、古い慣習がいっせいに変わったわけではなく、試行錯誤のなかに、しだいに新しい形に固定するのである。地租改正・徴兵制度と新教育制度の設定は、なかでも三大改革といわれ、こうしたなかで、近代的行政村としての新しい村づくりがおこなわれてゆく。宝塚で良元(りょうげん)・小浜・長尾・西谷の諸村が成立するのはこの時代である。歴史の流れのなかで、あたりまえのことのようにみえる一つ一つの改変のうちにも、村の多くの先輩たちの苦労の跡がしっかりと刻まれていることを忘れてはなるまい。宝塚の近代化という華やかな場面の前にこうした村社会の変遷をくわしく眺めてみる必要がある。
 武庫川をはさんで二郡四カ村にわたる町村が、さまざまな経緯はあったとしても、一つの都市づくりをするには何か中心的な存在が必要である。その一つが温泉である。早くも明治十九年に開発された、いわゆる旧温泉はそのはじまりである。明治も三十年代になると、大阪と舞鶴を結ぶ阪鶴(はんかく)鉄道(現国鉄福知山線)が部分開通して、武庫川左岸に「宝塚駅」がまず開設され、阪神間の浴客を、この山間の地に運びはじめる。一方、武庫川右岸の旧温泉の周囲にも、どうやら旅館がたちはじめ、温泉情緒(じょうちょ)を漂わすころから武庫川の左右両岸を結ぶ心の絆(きずな)がしっかりとかかってくる。しかし駅と温泉が田園風景のなかにポツンとあるというのが当時の姿であった。阪鶴鉄道の国鉄移譲を契機に、大阪と宝塚を結ぶ箕面(みのお)有馬電気軌道(現阪急電車)がまもなく左岸に登場して宝塚発展の一時期を画することになる。すなわち電鉄直営の新温泉と少女歌劇が、武庫川の河畔に天女の如く舞いおりたからである。一つの新しい試みは、やがて多くの連鎖反応をよび、ここを中心に商店街ができ、こうした左岸の発展はまた右岸旅館街の充実と繁栄をもたらし、武庫川をはさんでこの一角だけは、さまざまな組織と目標をともにする特別な地区ができあがってゆく。こここそ「温泉と歌劇」の町の初期の核心となるのである。
 しかし、この核心からはずれたところは、まだ草ぶき屋根の農家がつらなり、古い生活を守っていた。そうしたなかで、街道ぞいの宿場町として、かつては大いに繁栄をした小浜は、鉄道や電車といった近代的な交通機関の恩恵にあずかることができず、その機能が新興地にとってかわられる。