「温泉と歌劇」の宝塚が、日本のなかから世界にむかってその名を知られてゆくころ、日本自体は暗い戦争への道をたどらなければならなかった。戦争の激化は当然娯楽面への風あたりを強め、宝塚も燈の消えたような日々がつづく。もっとも、つい「温泉と歌劇」のことばかりに眼をむけてきたが、一方では大正期から昭和の戦前期にかけて、電鉄会社をはじめ、地元有志の手による経営も加わって、いちじるしく沿線の住宅開発が進展していたのである。武庫川左岸の小浜・長尾村を走る宝塚線沿線はもちろんのこと、大正十一年(一九二二)に良元村側を今津線が通るようになって、急激に右岸側も発展してきた。しかもこの傾向は、いもおう当時の戦時体制とは無関係に進展していたのであった。これが今日の宝塚市の第二の核心となる住宅都市の基盤なのである。
暗い十数年にわたった戦争は、敗戦となって昭和二十年(一九四五)を迎える。そして明治維新にも匹敵する、さまざまな改革が、行財政・農業・教育の面で実施されたが、やがてそのなかから、四町村合併による宝塚市の大構想が誕生し、幾多の迂余曲折(うよきょくせつ)のうちに、ついに昭和二十九年(一九五四)わが「宝塚市」が成立するのである。振りかえってみると、第一の核心である「温泉と歌劇」の町をじっと守りそだててきた宝塚であったが、気づいた時には「住宅」の町としての第二の核心が大発展していたということになる。人口一六万という数字は、とても第一の核心のみでは望めないことである。それだけに第二の核心である住宅都市にかかる期待は大きく、また明日の問題もかかっている。「住宅・リクリエーション都市」という一つの理想に進む宝塚の街づくりを、つぎの世代にしっかりと受けわたす意味からも、この市史は大きな意味をもつことであろう。