このような谷は、現在の沖積平野をつくる軟弱な沖積層の下に保存されている。すなわち、ふたたび海水面が上昇して、そのなかに堆積した地層によっておおわれたのである。その詳細は、昭和四十七年(一九七二)に実施された大阪南港埋立地への連絡橋である港大橋の橋脚工事のさい、海底面からしたへ三五メートルまで掘りさげる潜凾(せんかん)工事がおこなわれたが、そのとき露頭から直接採集された標本の研究によって明らかにされた。
その結果によると、今から約一万年前の沖積世に入るころには、海水面は現海面下二七メートル付近まで上昇してきて一時停滞した。そのころの地層には、大阪港の海底下でありながら、淡水にすむシジミやタニシの化石が含まれている。
そして約八〇〇〇年前から海水面がふたたび上昇をはじめ、五五〇〇年前ころには最高潮に達し、現在より約三メートル水位が上昇したが、その海水面の上昇速度は年平均約一センチメートル以上に達した。これはのちに述べるように、地盤変動の速度が年平均にすると、大きいところで数ミリメートルであるのに比べると、一けた大きい値である。
この海水面上昇は縄文(じょうもん)海進として知られているものであるが、最も海水面があがった時には、大阪平野では、淀川の低地帯を通じて、河内の奥深くまで海が入りこみ、武庫平野では、現在の阪急電鉄神戸線付近が波打ちぎわであったと考えられる。