沖積層の形成

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その海底に積った泥は、それ以前の平野であった伊丹面のうえに刻まれた谷を埋めたて、さらに全面にわたって粘土が堆積した。これが大阪や尼崎の沖積平野の地下に広く分布し、地盤沈下や建物の不等沈下の最大の原因となった軟弱な梅田粘土層、あるいは尼崎粘土層とよばれているものである。そして、宝塚市市街地付近から小林付近にかけて、武庫川右岸沿いにみられる最も低い段丘は、この時期の武庫川の扇状地とみられ、沖積段丘とよばれている。
 その後約二〇〇〇年前から、海水面がふたたび徐々に低下しはじめた。武庫川は、宝塚市域に発達した山麓扇状地を再度開析し、三角州を大阪湾に向って前進させていった。尼崎や西宮の海岸平野は、このような武庫川や猪名川の三角州、そしてその間をつなぐ砂州の複合体であるといえる。
 武庫川の平らな氾濫原の地下には、このように複雑な歴史が秘められているが、それはとりもなおさず、段丘の形成と、地層の形成との関係という重要な問題を解く鍵を提供しようとしている。