第一節で、アーツの映像を追いながら、武庫川の複雑な流路を規定する直線的な谷、山地内をうねうねと蛇行する峡谷、そしてまた、明瞭な分水嶺もなく谷間のなかで分水する武庫川と加古川のふしぎさについて語ったが、このような現象を起こしたのは地殻変動であり、それが実は、宝塚市域の立地する二つの山地と一つの平野をつくりあげた変動と密接な関係のあることが、最近急速に明らかになってきた。
まず谷中分水界の問題からはじめよう。この現象は単に武庫川と加古川の分水界だけではない。由良川と加古川の分水界も、氷上(ひかみ)盆地の一隅にある石生(いそお)付近で、民家の屋根が分水嶺の役目を果しているといわれるくらいである。そしてこの部分は海技わずかに九五メートルしかなく、日本海と太平洋側の水を分ける本州の分水界のなかで最も低い部分であることを知る人は、案外少ない。
図14は二〇キロメートル四方の方眼で西南日本を区切り、そのなかの最も高い点を選びだし、それらを基準にして等高線を引いたものである。これであらわされる起伏は、小さな谷筋を全部埋めてしまって、浸食される前の形に近いものということができる。いいかえると、日本列島にふんわりと柔かい布をかけた姿を想像してもらえばよい。
そのなかで、若狭湾と播磨灘を結ぶ帯状の低い部分がはっきりと出てくる。武庫川・加古川・由良川の谷中分水界は、まさにこの低地帯に位置するのである。由良川と加古川は、丹波山地中央部の水をこの低地帯に集める役割りを果してきたが、この低地帯内で、太平洋側と日本海側へどう水を分割するかという点で争奪をくりかえしてきた。少なくとも最初由良川の水は福知山から北に向わずに南に流れ、加古川に注いでいたに相違ない。
武庫川は猪名川とともに、丹波山地南部の水を集める役割を果してきたが、図1や図14でわかるように、丹波山地から六甲―淡路に連なる山地を横断しているのである。もし最初からこのようなふくらみがあれば、武庫川源流の水は三田盆地を経て西へ流れ、加古川に合流するのが自然である。しかし北摂山地に深い武田尾峡谷をつくりながらこのふくらみを切断していることは、武庫川が流れだした初期のころにはこの長尾山地に連なるふくらみはなく、その後この部分がしだいに隆起するにつれて、武庫川は隆起量を上まわる強い浸食力をもって、川筋を北摂山地のなかに刻みこんでいったとみなければならないのである。