高位段丘面の変位

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六甲山地は、まわりを断層で囲まれた断層地塊である。そして六甲の山頂には、第三紀末に完成したと考えられる準平原面が保存されているのであるから、それ以後に隆起して今日の姿になったにちがいない。その過程はどのようなものであったであろうか。その資料は、六甲山地内の浸食平坦面の分布、大阪層群の分布および段丘の分布から追求することができる。そして特に高位段丘が問題である。
 西宮ゴルフ場のロッジが建っている面が高位段丘面である(写真20参照)。この面はかなり開析されていて面積的には狭いが、既に述べたように、西宮市の鷲林寺・柏堂を経て、苦楽園にいたり、さらに六麓荘から芦屋市山手町の台地まで追跡することができる。その間に段丘面の高さはしだいに減じて、西宮ゴルフ場付近では二五〇メートル以上あったのに、山手町では一〇〇メートルぐらいになってしまうのが特徴である。
 太多田川の断層谷内では、蓬莱峡の破砕された花こう岩のうえにのっている厚い砂礫層がつくる平坦面、上ケ平の面が高位段丘面にあたる。七曲りの途中からみると、はるか上空に櫛(くし)の歯のような垂直の絶壁をつくっている礫層の存在は、自然の壮大な動きのドラマを実感させてくれるであろう。上ケ平の段丘面は標高四五〇メートルに達する。

図16 段丘と断層の分布


 おもしろいことには、太多田川の北岸の琴鳴山のつづきの尾根に登ってみると、細い尾根のうえにこぶし大の礫をいっぱい含む礫層がのっている。疑いもなくこれは上ケ平の礫層の延長なのである。この事実からわかることは、この礫層ができた時代には、今の深い座頭谷や太多田川はまったく存在せず、このあたりは、累々たる砂礫でおおわれた広い氾濫原であったにちがいない。そしてその水は北へ流れて名塩、木の元の方へ注いでいた可能性が多い。
 現在海抜四八八・九メートルの、塩尾(えんぺい)寺の奥にそびえる岩倉山も、その当時は礫の海の間からわずかに顔を出す島にすぎなかった。その証拠には、岩倉山のまわりの谷の奥はびっしりと礫で埋まっていて、これらが現在の谷の浸食作用でできたとは考えられないのである。

写真23 太多田川の高位面 蓬莱峡と上ケ平面(右側の平らな面)