高位段丘の形成

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西宮市の甲山を中心とする北山山塊も同じように島であり、ようやくできはじめた樫ケ蜂(かしがみね)から雷岳にいたる断層崖から運びだされた礫は、そのふもとに扇状地をつくり、甲山を中心とする島との間を埋めた。
 そのころ武庫平野の部分はどうだったのかと推定することは、極めて興味はあるがむずかしい問題である。西宮ゴルフ場あたりでみられるような礫層が、現在の高さで広く武庫平野全体をおおっていて、その後に浸食されてなくなったとは考えにくい。武庫平野部は低位段丘の時代まで、何回も海が浸入してきて厚い粘土層をつくってきたのであるから、六甲地塊が上昇していったのと反対に沈降してきたに相違ない。そして伊丹礫層ができてからのちに上昇に転じたのである。
 こう考えると、六甲の樫ケ峰山塊が芦屋断層のところで切れながら上昇していって、その山麓に扇状地礫層をつくっている時、おそらく武庫平野は海であり、その底には粘土を沈澱(ちんでん)していたに相違ない。そして甲陽断層と芦屋断層の間にはさまれた北山地塊は、その中間部を占める低い丘陵地で、甲山だけが島のように突出していた。
 逆瀬川や仁川は、もちろん今のような深い谷ではなかったが、樫ケ峰地塊から出たところの低地帯に一度扇状地をつくりながら、さらに、甲山の北側の五ケ池付近の浸食されやすい大阪層群の部分を通って、武庫平野の海に注いだにちがいないから、その海岸に沿ってもう一度扇状地をつくったはずである。それらはもはや浸食されてなくなってしまったのであろうか。

写真24 高位段丘礫層 西宮ゴルフ場