ついで時代は中位段丘の時代に移る。一度低下した海水面はふたたび上昇して、武庫の沈降部に海水をたたえはじめた。その海に堆積した粘土層は、伊丹粘土層下に広くひろがる、川西粘土層である。武庫川本流や逆瀬川・仁川の三角州は後退して、川口付近に扇状地をつくったが、海水面の上昇とともに川の浸食力や運搬力が減じてきたため、大型の礫は姿をひそめ、川口のあたりには、流木層をはさむ砂礫層が堆積していった。そして、この海が退くとともに、ふたたび大型の礫をふくむ扇状地の広がったのが千種や西宮市の上ケ原の面である。
このように高位段丘面と中位段丘面の形成は、低位段丘面と沖積平野の形成と同様に、六甲の上昇と武庫平野部の沈降運動のなかでくりかえされた海水面そのものの変化との組みあわせで説明できそうであるが、詳細についてはなお今後の研究にまたなければならぬ点が多い。
六甲山地の上昇は、高位段丘の高さからみても、その現在の高さの半分以上が段丘の時代に入ってから隆起したことがわかる。それはまだ正確にはいえないが、おそらく二〇万~三〇万年以降という、地球の歴史からいえば、驚くべき新しい動きであるといえる。そしてこの上昇は甲陽断層や芦屋断層に加えて、住吉川に沿って走る五助橋断層など北東から南西に走る断層群に沿ってずれながら上昇していったのである。そしてその上昇運動のさきがけは、大阪層群の最上部を占める満地谷累層のころからあらわれはじめたことは、この層準の地層から砂礫が多くなり、不整合現象がみられるようになることからもわかる。