宝塚市のシンボルの一つである温泉の由来は古い。『摂津名所図会』に伊孑志の山下に「塩の湯」あり、とされているし、塩尾寺の御供水の縁起にも、「鳩が淵(ふち)の川下に霊水あり、その味、塩よりからし」とある。今の鉱泉分類でいう食塩泉が、このあたりに自然湧出の鉱泉としてわいていたことは疑いない。明治十八年(一八八五)に、武庫川右岸の小松原で、塩からい湧水と、すっぱい湧水の二つをみいだし、手掘り井戸で炭酸泉を開発し、浴場・旅館を開いたのが、今日の宝塚温泉のはじまりといわれている。さらに明治四十四年(一九一一)の新温泉の開発、それにつづく温泉町繁盛記は第三巻にゆずることにして、市政施行以後の温泉ボーリングの資料から、宝塚の温泉・鉱泉の自然史的な面を考えることにしよう。
昭和二十九年(一九五四)に第一ホテルと寿楼の二カ所で温泉ボーリングがおこなわれた。第一ホテルでは掘さく途上、岩片を吹きあげるほどガス圧が強く、難工事の末、多量の鉱泉を湧出させることに成功した。この鉱泉は、現在なお活発な自噴をつづけている。一方、寿楼では深度三五〇メートルまで掘進し、孔底温度で三〇度Cを記録しているが、その後、深部が崩壊し、現在一〇〇メートル程度の深さしかない。泉質はいずれも塩素イオンの含有量が多く、また遊離炭酸を含む、含炭酸食塩泉であり、温度は二〇度前後である。
宝塚市は、昭和三十九年(一九六四)に、財団法人中央温泉研究所に委嘱して、新泉源開発のための調査を実施し、その結果に基づき、見返岩付近において、深度一〇〇〇メートルを目標とする、ボーリング工事が開始された。昭和四十四年(一九六九)に深度一〇〇一・一メートルで工事を完了し、各種の調査がおこなわれ、つぎの結果が得られた。
一、揚湯試験湯量 毎分一六~二三リットル
二、孔口温度 二三・五度C
三、孔底(九八〇メートル)温度 四六・七五度C
四、泉質 含炭酸食塩泉
宝塚温泉の周辺には、有馬―高槻構造線に沿って、生瀬・蓬莱峡・有馬の鉱泉・温泉が湧出している。このうち有馬温泉は日本最古の温泉とされ、江戸時代の「温泉番付」には、東の大関(最高位)草津の湯とならんで、西の大関が有馬の湯となっている。現在の有馬温泉には、温度九〇度C以上の高温泉の泉源が六カ所、中・低温泉と鉱泉、それぞれ数カ所の泉源をもち、日湧出量一〇〇〇トン以上の湯出量を誇っており、これらの温・鉱泉群を、(一)高温・低炭酸濃度の強食塩泉、(二)中・低温の食塩泉、(三)低温の含炭酸食塩泉、(四)単純炭酸泉に区分することができる。