このような大変動を受けて性質を一変した大地はしだいに分化して、第三紀中新世とよばれる約二五〇〇万年の昔から、日本列島の輪郭がおぼろげながら浮びあがってくる。そして、領家帯のなかに湖が発生し、それはしだいに現在の瀬戸内海に似た多島海に発展していった。これが第一瀬戸内海とよばれているものである。
第一瀬戸内海の水域は、奈良盆地から大阪盆地を経て淡路島を横ぎり、津山(岡山県)の方に延びていた。そして三田盆地の部分はちょうど今の浜名湖のように、内海から入りくんだ湖水盆であったに相違ない。このなかに神戸層群が形成されていった。そしてこの湖と内海は、名塩から、宝塚を連ねる溝状の部分で連結されていたのである。そのなかに堆積した礫層が、桜小場のスポーツ日本ゴルフ場付近や売布神社の付近に残っている。
ついでこの内海は退き、三田盆地にあった古神戸湖も埋めたてられたが、一五〇〇万年ばかり前には二上山や屋島で代表される瀬戸内火山系の活動があった。西宮市に特異な姿をみせる甲山はそのなごりである。
ここで瀬戸内は長い静穏期に入り、地表の高い部分は削られて、全体がその当時の海水面のレベルに近づき、いわゆる準平原とよばれる状態になったとみられる。この浸食平坦面は、その後の六甲変動により隆起し、現在九〇〇メートルに達する六甲山頂や、北摂山地の四〇〇~五〇〇メートルの山頂の比較的平らな高原状の面として残されている。これらの面をこの高度にもちあげた六甲変動こそ、宝塚市域の自然史の最後を飾るものであった。
六甲変動の舞台装置は、第三紀末の鮮新世のころからはじまった。このころを第二瀬戸内時代とよぶ。それは三〇〇~四〇〇万年前のことであろうか。領家帯―いいかえれば広義の瀬戸内地域にふたたび浅い湖ができはじめた。丹波帯はその後背地ではあったが、わずかな高まりに過ぎなかった。そして武庫川はその間をゆるやかに蛇行しながら流れていた。まだ篠山盆地も三田盆地も形をなしていなかったし、六甲は小丘に過ぎなかった。