第四紀に入るころから、この地域に東西方向の圧縮作用が加わりはじめた。そして花こう岩でできている近江盆地の部分が沈降しはじめるとともに、美濃や丹波帯が隆起をはじめた。そしてこの力は岩盤に格子状の割れめを発生させた。
この割れめはこの面に沿って両側のブロックが反対側にずれ動く性質のものであったため、それに沿って岩盤がいちじるしく破砕されたので、山地の上昇にともなってこの部分は急速に浸食され、直線的な谷となっていくと同時に、大量の礫を武庫川本流を通じて南に運んでいったに相違ない。そして本流もまた山地の隆起につれて、蛇行する流路をそのまま山地内にはめこんでいった。その理由は川の浸食力の方が、山地の隆起に打ちかったためである。
このようにして生じた割れめは、すなわち横ずれ断層であって、北東―南西方に延びるものと、北西西―南東東に延びるものとの二系列に分かれるが、これらはまったく独立したものではなく、この地域が東西方向に圧縮されることによって、同時的にできた割れめと考えられる。
宝塚市域の西谷方面にはこの地球の傷跡が多く残っていて、その谷筋が逆に山間小盆地となって居住地を提供してきたのである(写真3参照)。
その自然の幾何学模様は図23のように認められる。武庫川本流や羽束川は準平原時代からあった古い川筋で、格子模様とは無関係であることがわかる。武庫川水系と、猪名川水系とは、この格子状の谷の成長するなかで流路を奪いあい、下佐曽利から波豆川に注ぐ支流は、猪名川町万善から北西に延びる支流によって争奪され、その分水嶺は今では普光寺(長谷)の南側の田のなかということになってしまったのである。