この間武庫平野の部分はしだいに沈降して砂礫や粘土層よりなる大阪層群を堆積していったが、逆瀬川流域の宝塚ゴルフ場あたりは、大阪層群下部を堆積したのち逆に隆起に転じ、六甲山地の前身となった。千里丘陵もまたふくらみはじめた。
一方北摂山地では、川西市域の猪名川中流部や、宝塚市域では切畑付近に大阪層群の下部に属する砂礫層をつくったあとは全体として隆起に転じた。六甲山地・武庫平野・千里丘陵と波うつように変化していく南部と、一枚の板が上下するように変化する北摂山地との間には、その動きの相違を調節するために割れめが入るのは当然であって、それが有馬―高槻構造線である。そしてこの亀裂(きれつ)は丹波帯と領家帯の古い境界面にあたる古傷を利用しておこなわれたと思われる。
約三〇万年前ごろから、それまでゆるやかに進行してきた変動は激化し、山地の急上昇期に入った。その理由はおそらく東西の圧縮力が大きくなり、格子状の断層でかこまれた地塊が、起きあがりはじめたことによると思われる。
六甲山地は、甲陽断層・芦屋断層・五助橋断層など北東―南西方向に延びる断層系と、有馬―高槻構造線でかこまれた三角型の地塊が、東に高く、西に低く、鎌首をもちあげたように傾動隆起したものである。それと対称的な位置に隆起したのが箕面山地である。
この急激な隆起のはじまる前の姿は、高位段丘礫層の分布から推定できる。その古地理図は図24にしめされる。当時六甲の最高点の部分でも、三〇〇~四〇〇メートルの丘陵的な高まりにすぎず、甲山周辺の北山山塊は島状であり、武庫平野部はおそらく海が入りこんできていたと思われる。