ようやく胎動をはじめた断層地塊の隆起運動は、破砕帯に沿ってできかけてきた断層崖のふもとに、大量の礫をためて、崖錐状の小扇状地をあちらこちらにつくった。太多田川に沿う高位段丘、西宮ゴルフ場から鷲林寺・柏堂・苦楽園・六麓荘を経て、芦屋市山手町にかけて、芦屋断層の断層崖に沿って分布する高位段丘面は、このような小扇状地の面である。高尾山山塊では明瞭な広い面としては残っていないが、四〇〇メートル付近からうえの谷頭を埋めて、礫が大量に分布しているのに驚かされる。
このように、礫はいったん芦屋断層崖の下にためられたが、古い逆瀬川・仁川は、浸食されやすい大阪層群分布地を切って武庫平野の海に注ぎ、その川口付近でもう一度扇状地をつくった。それが逆瀬川の中位段丘の下にかくれている三メートルに達するいちじるしい円礫層であると推定される。この礫層はかつては満池谷累層とされたり、あるいは中位段丘層のなかに含まれたりしてきたものである。
やがて武庫平野の海は退きはじめる。武庫平野部の沈降はつづいていたことは確実であるから、海退はそれをうわまわる速度で起こったにちがいない。一方六甲山地は上昇をつづけていくから、その周縁にできた礫層はしだいにもちあげられて段丘の様相をあらわしてくる。太多田川・逆瀬川・仁川はしだいに深く切れこみ、武庫平野部に開く扇状地は三角州となって前進したにちがいない。
ついで十万年ばかり前とみてよいが、ふたたび大規模な海進がはじまり、武庫平野部には海水があふれた。それにともなって川は浸食力を失い、逆瀬川や仁川が武庫平野に開くあたりは湿地性の氾濫原となり、洪水時には流木を堆積した。小林聖心女子学院の南東の崖に露出する地層はその時期のものである。
この海も永遠のものではなかった。海が退くにつれてふたたび逆瀬川・仁川は大きな扇状地をつくりはじめた。これが千種町の中位段丘面で、西宮市の上ケ原の面と対応する。その時期には、すでに千種面より一〇〇メートル以上も高いところに隆起していた西宮ゴルフ場一帯はすでに扇状地をつくる条件はなくなり、高位段丘礫層を浸食するだけであった。
この海退にともなって、千種や上ケ原の扇状地としてひろがっていった礫層は、武庫川や猪名川からおしだした礫層と合わせて、川西礫層になったものとみられるから、川西粘土層はこれらの扇状地の発達していたころの武庫の海底に沈積した海成粘土層といえる。