メタセコイア植物群

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以上のような地形と気候の移りゆきのなかで、生物の世界もまた変遷を重ねてきた。現在の世界にかかわりあいの多い第三紀末のころからその跡をたどってみよう。
 今では島国であるにもかかわらず、日本の第四紀層からは象の化石がかなり出る。この陸の王者は、何回か大陸と日本列島が陸つづきになったときに渡来しては、また姿を消していったにちがいない。
 同じような運命をたどったのがメタセコイアである。第四紀はじめのころには、この「生きている化石」として有名になったメタセコイアの森林は、いたるところに繁茂していたが、大阪層群の上部にあたる時代から、急に姿を消してふたたび日本列島へはもどってこなかった。
 このメタセコイアの化石は、西宮ゴルフ場内を流れる仁川の川底に露出する地層のなかにたくさん含まれていて、日本のこの時代の植物遺体研究のパイオニアであった三木茂に豊富な資料を提供した。そのころまでアメリカ西岸原産の常緑樹セコイアと同属と考えられてきたこの化石について、三木は落葉樹であることを指摘し、昭和十六年(一九四一)メタセコイアという新属を設定した。
 太平洋戦争が終わって、中国の植物学者からカリフォルニア大学のチエニーにメタセコイアらしい木が四川省の奥に現生しているとの報がもたらされ、早速調査したところ、まさに三木の指摘したように落葉であることが確認され、学界の称賛をあびた。そしてメタセコイアはふたたび日本に移植され、六甲山麓に亭々(ていてい)とそびえるようになったのである。

写真26 メタセコイア 平井3丁目三木家


 メタセコイアと同じころに繁茂した植物には、オオバラモミ・シマモミ・イヌカラマツ・ランダイスギ・オオバタグルミ・フウなど、もはや絶滅した第三紀型の植物が多いが、このなかには今も温暖、湿潤な台湾や中国南部に自生しているものもある。
 このような事実は、第四紀になると、第三紀の温暖、湿潤な気候が崩れだし、大阪層群の上部の時代からこれらの植物には耐えられない気候の寒冷化がくりかえしはじめたのではなかろうか。約百万年の昔である。
 メタセコイア時代の地層の宝塚市域での主な分布地は、逆瀬川の右岸であるが、宝塚ゴルフ場があるため一般の目にふれることがなくなってしまった。西谷地域の切畑付近の薄い地層もこのころと考えられるが、まだ植物化石が発見されていない。
 昭和四十八年(一九七三)十月雲雀丘学園敷地造成中に豊富な植物遺体を含む地層が発見された。鑑定によると表4にしめしたような植物よりなる。

写真27 雲雀丘の植物遺体


 

表4 雲雀丘4丁目雲雀丘学園工事現場より出た植物化石(粉川昭平鑑定)

Picea cf.bicolor・・・(イラモミ)球果・葉・枝・種子
Abies sp.・・・(モミ属)葉
Chamaecyparis pisifera・・・(サワラ)技
Juglans mandshurica・・・(マンシユウグルミ)堅果
AInus japonica・・・(ハンノキ)果・種子
Polygonum sp.・・・(タデ属)種子
Buxus sp.・・・(ホンツゲ属)葉
Rosa sp.・・・(バラ属)とげ
Prunus sp.・・・(サクラ属)核
Wistaria sp.・・・(フジ属)冬芽・果
Trapa macropoda・・・(シリブトビシ)果
Acer diabolicum・・・(カジカエデ)種子
Cornus controversa・・・(ミズキ)種子
Viburnum sp.・・・(ガマズミ属)種子
Phragmites sp.・・・(アシ属)桿
Scirpus sp.・・・(ホタルイ属)種子
Iris sp.・・・(アヤメ属)種子
Potamogeton sp.・・・(ヒルムシロ属)種子
Sparganium sp.・・・(ミクリ属)種子

 
 その内容をみると、メタセコイア時代の特徴種はないがマンシュウグルミ型の大型のクルミが出るので、まったく新しい時代のものともいえない。池や沼にすむ水生の植物が多く、冷涼な温帯気候型のものである。正確な時代はきめにくいが、メタセコイア型の植物が消えていく過渡期のものではないだろうか。