石と文化

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宝塚市周辺で、先史時代の遺物としてサヌカイト石器が多数発見され、そのころから、この地域がわれわれの祖先の生活の場となっていたことがわかる。この石器のなかでも、近畿・中国・四国の瀬戸内沿岸地域はサヌカイト石器が共通して使われ、独特のサヌカイト文化圏をつくっていた。そしてその原石がどこから運ばれたのかが問題となっている。六甲山地の甲山もサヌカイト類に当る安山岩でできていて、石器素材供給源の一つとして考えられているが、石器の岩質と完全に同質か否かの検討はまだ進んでいない。
 長尾山地の南斜面や、甲山を中心とする北山山塊には、それぞれおびただしい数の古墳群があり、これらの地の近くにはすでに早くから集落があったことを物語っている。古墳の石室や石棺には、北摂山地を構成する流紋岩類や六甲山地の花こう岩が使われている。
 またこれらの石材は、中世・近世になると神社仏閣の石鳥居・石燈ろう・石仏・石塔などに利用され、現在文化財としてそのおもかげを伝えているが、宝塚の二つの山地を構成する岩石あっての文化遺産といえよう。
 六甲山地の花こう岩は、石材「みかげ石」の名の起こりでもあり、研磨すると美しく光り、優白色の生地にピンク色の長石と黒色の黒雲母が散在する組織がよく、昔から尊重されてきた。しかし六甲山地は変動を激しく受けた地域で、圧砕しているところが多く、良質の石材として使える部分が少ないため、今では「みかげ石」の名を残しているにすぎず建材はすべて他地域に依存している。

写真28 石造文化財 大原野字堂坂、大日堂の横


 北摂山地の流紋岩類は、石垣や護岸の石積み、鉄道・道路のバラス(砕石)としてさかんに利用され、惣川沿いに大規模な採石場がならんでいる。
 石は、昔から割る、削る、みがくなど簡単な加工で利用されてきたが、他方、冶金(やきん)精練技術の導入とともに鉱産資源が注目され、奈良時代、大仏鋳造のため、早くも多田鉱山を中心とする北摂山地の鉱脈鉱床群が開発された。多田源氏の時代はもちろんのこと豊臣・徳川時代は天領として、銀・銅を採掘し、その財政をまかなったと伝えられている。さらに第二次大戦後も、猪名川町銀山で、昭和四十八年(一九七三)まで稼行(かこう)されていたように、そのときどきにより栄枯盛衰はあるが、一国の経済に貢献した鉱産資源であった。
 断層破砕帯から湧出する、宝塚の食塩泉・炭酸泉・放射能泉や武田尾の硫黄泉など、天然の鉱泉群も古くから知られており、明治以降開発が進められて、宝塚温泉のイメージが生まれ、今日の発展への一因ともなってきた。

写真29 石切場 自衛隊爆破演習場付近