砂防法が公布され、それによる一定の行為禁止制限地が武庫川流域に設けられた。太多田川と仁川にはさまれた六甲山地の多くの部分が、最初の禁止制限地の適用を受けている。明治三十二年(一八九九)から砂防工事に対して国庫補助がなされ、砂防工事は軌道に乗ってきた。災害対策の中心となる県営良元砂防工営所もこの年五月に設立され、昭和十三年(一九三八)に国営の六甲砂防事務所の設立までの長い期間、良元工営所が砂防という地味な仕事をつづけていた。砂防工事着手の翌年、明治二十九年(一八九六)八月三十日の台風により武庫川堤防が決壊し、家屋の浸水・流失をみている。
明治三十五年(一九〇二)、治山治水対策の二五年間継続事業の意見書が出され、これにもとづき、県会は一三年間継続事業武庫川関係総工費一三万四四一八円を議決した。これが第一次継続事業で、武庫川水系の逆瀬川・太多田川の改修工事が中心となった。つづいて大正五年(一九一六)を開始度とする第二次継続事業にひきつがれ、昭和八年(一九三三)で改修工事を修了した。通算三〇年に及ぶ工事により、逆瀬川・太多田川流域の水源地域には、当初の禿赫(とくかく)崩壊地のおもかげはなくなり、緑の山林が生育し、流路の整理と砂防堰堤の効果は武庫川本流への土砂の流出を極度に減じ、昭和十三年(一九三八)の阪神大水害のさいにも逆瀬川・太多田川流域の人家・耕地には、ほとんど無被害というめざましいものであった。