昭和十三年七月、不連続線の通過により集中豪雨が起こった。神戸測候所では七月五日午前八時より正午まで、毎時四一ミリメートルを超す降雨を記録、五日の日雨量は二六八ミリメートル、六甲山地では六〇〇ミリメートルを超す豪雨となり、急斜地はしきりに崩壊し、山崩れの土砂を混じえた土石流は、東は西宮から、西は垂水までの家屋構造物を破壊、埋没した。阪神大水害といわれる災害で、このときの六甲山地の土砂流出量は三〇〇万立方メートルとみなされ、芦屋川・住吉川などの下流部には一〇トン以上の岩塊が多数おし出されている。宝塚市域では、武田尾付近の旅館などの埋没や、生瀬橋の流失などがあるが、仁川合流点以南の西宮市浸水地域に比べ、格段に被害が少なく、逆瀬川・太多田川の流域の長期間にわたる改修工事の恩恵が明瞭にあらわれた。
阪神大水害の教訓から、六甲山地五一河川の改修が、国営事業として取りあげられることになったが、日中戦争・太平洋戦争と戦局の拡大にともない、本格的工事は中止されたままになった。
昭和二十年(一九四五)戦争は終わったが戦後の混乱から治山治水事業は放置されたままであった。これに追いうちをかけるように同年十月阿久根台風がこの地域を見舞い、武庫川の水位は武田尾付近で鉄道線路を超え、生瀬鉄橋をはじめ、多くの橋梁が流失して福知山線は約一カ月間不通となった。
昭和二十五年(一九五〇)のジェーン台風の災害以後、ふたたび建設的な治山治水対策に取りくむ姿勢がもどったが、
昭和二十八年(一九五三)一三号台風、昭和三十二年(一九五七)豪雨、
昭和三十五年(一九六〇)一六号台風、昭和四十二年(一九六七)集中豪雨
などの災害があいついで起こり、その応急工事に追われて、荒廃地の回復を含む長期的な治山治水対策は、わずかずつ進められているというのが現状である。一方、都市の発達にともなう山地開発が大規模に進められ、明治以来長期にわたり育ててきた緑の山野が、日に日に破壊されていく現状はいたましい限りである。自然環境の保護という意味以上に、これは生活環境を守る立場から考えなおさなければならないところである。